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 第二次世界大戦が終わり、今年で73年。平和な日本にあって、戦争の記憶は遠いものになりつつある。まして、第二次世界大戦より以前の日露戦争や第一次世界大戦ともなれば、戦争を経験した人も少なくなってしまった。当時、四国には戦争で俘虜(ふりょ)(捕虜のこと)となった外国人を収容する施設があった。
 愛媛県松山市には、日露戦争中、ロシア兵を収容した松山俘虜収容所があった。現在、松山城の北側には、故郷に帰ることができず、松山で息を引き取った98人の兵士たちの墓がある。収容所は、香川県善通寺市と丸亀市にもあったという。
 また、徳島県鳴門市には、第一次世界大戦中、ドイツ兵を収容した板東俘虜収容所があった。俘虜たちが築造した「ドイツ橋」や「めがね橋」が今も残っており、俘虜たちがアジアで初めてベートーヴェン「第九(だいく)」交響曲を演奏したことも知られている。
 戦争は過去のものになっても、戦時下に咲いた「友好の花」は、決して枯れることはなく、今も市民たちによりさまざまな形で受け継がれている。

バイオリン
銅像

ロシア兵を収容した松山俘虜収容所【松山市】

ロシアカラー

 日露戦争下、愛媛県松山市の「松山俘虜収容所」には、延べ約6,000人のロシア兵が収容された。中には傷ついた兵士も多かったが、松山市の人は手厚く看護したと記録されている。俘虜の待遇が非常に良かったため、ロシア兵が「マツヤマ!」と叫びながら投降したというエピソードもあるほどだ。松山市へと連れてこられたロシア兵は道後温泉に入浴し、砥部焼の窯元に遠足に行くなど、自由が与えられ、市民との交流も盛んに行われていたという。戦後、多くの兵士は故郷へと帰ったが、故郷に帰れずに松山市で息を引き取った98人の兵士は、来迎(らいごう)寺のロシア兵墓地に葬られた。
 昭和59年、松山市立勝山中学校で、当時教頭をしていた京口和雄(きょうぐちとしお)さんは、墓地が荒廃している様子に心を痛めた。そこで「ロシア兵墓地保存会」を立ち上げて、市民の手で清掃活動や慰霊祭を行うようになった。京口さんの呼びかけで、勝山中学校の生徒たちも、月1回、墓地の清掃奉仕活動を実施しており、毎回100人ほどが参加。草むしりをしたり、墓石を丁寧に磨いている。生徒会長の大野竣平(しゅんぺい)さんは、「清掃をすると、とても清々しい気持ちになります。30年以上続いているこの活動を誇りに思っているので、大切な伝統としてこれからも守っていきたい」と胸を張る。清掃活動を終えたら、墓石に花と線香を手向けて、参加者全員で黙祷を行う。俘虜たちを迎え入れた「マツヤマ」の温かい人情は、今も変わらずに受け継がれている。

道後温泉で寛ぐロシア兵俘虜たち(日本赤十字社愛媛県支部蔵)

清掃活動を行う勝山中学校の生徒たち。ロシア兵墓地の清掃は生徒会により受け継がれている

松山市のロシア兵墓地の慰霊祭の様子。在大阪ロシア連邦総領事館の総領事も参加

残された写真から始まった新たな友好の物語

 平成28年4月、徳島県徳島市の「立木(たつき)写真舘」に、ロシアからひとりの女性写真家がやって来た。モスクワ近郊の街イヴァノヴォ在住のアリョーナ・ジャンダロヴァさんだ。きっかけは、彼女が曽祖父の遺品から20枚ほどの写真を見つけたこと。その中に日露戦争で俘虜となった時代のものがあったという。写真に記されていた「徳嶋立木写真舘 第一善通寺分舘」という文字を手掛かりに、彼女は「立木写真舘」に辿り着いた。
 残された写真の中で、最もアリョーナさんが興味をひかれたのは、病衣姿の日本兵とともに写った一枚。どういう経緯で撮られたものかは分からないが、彼女の曽祖父も日本兵も、とても穏やかな顔をしていた。「寺院で撮った集合写真の俘虜たちも、和やかな表情を浮かべています。これらの写真からは、戦時下にあっても戦場を離れたら、とても良い関係が築けていたことがうかがえます」と話すのは、立木写真舘常務取締役の立木さとみさん。昨年9月、ロシアを訪れた立木さんは、戦時下の日露交流などをテーマに4回の講演を行った。これを機に現在も国内各地で講演活動を続けている。立木さんの話を通して、多くの人が戦時下の日露友好の物語を知るところとなっている。

右がアリョーナさんの曽祖父(アリョーナ・ジャンダロヴァさん蔵)

立木写真舘常務取締役の立木さとみさん

戦時下に咲いたロマンスの花

 昭和60年、松山城二之丸史跡庭園にある大井戸の遺構から1枚のコインが見つかった。ロシア軍少尉ミハエル・コステンコと赤十字社看護婦・竹場ナカの名を刻んだ帝政ロシア時代の10ルーブル金貨だ。この金貨は、2人が再会を誓って井戸に投げ込んだのでは?とロマンをかきたてた。戦時下で生まれたロマンスの証ともいえるこの金貨は、現在松山市の「坂の上の雲ミュージアム」に展示されている。また、この逸話をモチーフにした映画『ソローキンの見た桜』は平成31年春に公開予定で、愛媛県内などで撮影が進められている。

右上/二人の名前が刻まれた帝政ロシア時代のコイン(写真提供:松山市考古館)
左下/松山城二之丸史跡庭園の大井戸の遺構。コインはここから見つかった

お問い合わせ

● ロシア兵墓地

住所

ロシア兵墓地/愛媛県松山市御幸町1-531-2

松山市役所生活衛生課墓地管理担当/愛媛県松山市萱町6-30-5松山市保健所

電話番号 089-911-1863

● 松山城二之丸史跡庭園

住所

愛媛県松山市丸之内5

電話番号 089-921-2000

● 松山城総合事務所

住所

愛媛県松山市大街道3-2-46 松山城ロープウェイ駅舎2階

電話番号 089-921-4873

● 坂の上の雲ミュージアム

住所

愛媛県松山市一番町3-20

電話番号 089-915-2600
営業時間 9:00~18:30(入館は18:00まで)
休館日 毎週月曜日(休日の場合は開館)
URL http://www.sakanouenokumomuseum.jp

ドイツ兵を収容した板東俘虜収容所【鳴門市】

ロシアカラー
人道的に俘虜たちを迎えた3つの理由とは

 戦時下でも自由を与えられたドイツ兵俘虜たちの暮らしぶりを知るために、第一次世界大戦中に建設された「板東俘虜収容所」について、豊富な展示物で詳しく紹介している徳島県鳴門市「鳴門市ドイツ館」を訪ねた。学芸員の長谷川純子さんによれば、第一次世界大戦中、中国・青島(チンタオ)にはドイツの租借地(貸与された領土)があった。日本とイギリスの連合軍がここを攻撃して勝利し、約4,700人のドイツ兵が日本国内数カ所に設置された収容所へと連れてこられたという。うち約1,000人が、板東俘虜収容所で2年10カ月を過ごした。
 展示室には、収容所の様子を再現したジオラマがある。甲子園球場の約1.5倍の5万7,000平方メートルの敷地にあった8棟の兵舎(バラッケ)、パン店や写真館、理髪店など80軒が並ぶ商店街など、まるで一つの町のような雰囲気だ。収容所には運動場まであり、テニスやサッカー、クリケットのコートを整備。敷地内に別荘を建てて、バカンスを楽しむ俘虜がいたという記録も残っている。
 俘虜たちが、これほどまでに自由に暮らせたのには理由がある。

「鳴門市ドイツ館」。近くには「第九」にちなみベートーヴェンの銅像も建てられている

「当館で所蔵している貴重な資料は、現在、ユネスコ『世界の記憶』への登録を目指しています」と長谷川さん

 まず、日本が「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」などと定められた国際的な取り決めである「ハーグ条約」の精神を守っていたこと。板東に限らず、国内の俘虜収容所では人道的な姿勢を貫いていた。「これに加えて、板東ならではの3つの理由もあるのです」と長谷川さん。第1に板東俘虜収容所の管理者である松江豊寿(まつえとよひさ)所長の存在。松江の父は、戊辰(ぼしん)戦争で敗軍となった会津藩士であったため、敗者に対して思いやりを持ち、人間味のある対応をしたのだという。第2は、高木繁副所長の存在。高木は7カ国語を習得した国際派。中でもドイツ語が非常に堪能だったので、ドイツ兵たちの要望を正しく松江に伝えることができた。第3は、鳴門市に四国霊場の一番札所と二番札所があることで「お遍路さんを温かく迎え入れるお接待の心が根付いていたことも、大きかったのではないでしょうか」と長谷川さん。地元の人たちは、お遍路さんに対するように、異国の兵士たちを、抵抗感なく受け入れたのだ。当時の人たちは、親しみを込めてドイツ兵を『ドイツさん』と呼び、畜産や製パンなどさまざまな知恵を伝授してもらった。戦時下とは思えない、のどかな交流がそこにあったのだ。

木造のバラッケの復元模型。俘虜たちはここで生活をしていた

板東俘虜収容所の全体像が把握できるジオラマ展示

松江豊寿所長 第一次世界大戦中に板東俘虜収容所の所長を務め、在任中にドイツ人俘虜を人道的に扱い、地元住民と俘虜の交流を許可した(鳴門市ドイツ館蔵)

俘虜収容所で印刷された新聞「ディ・バラッケ」。謄写版で多色刷りが行われており、当時のドイツ人の印刷技術の高さを物語っている

初演から100年!鳴門に響く「歓喜の歌」

 『ドイツさん』たちが暮らしていた時代から100年を経てなお、鳴門市ではドイツとの縁を感じることができる。ベートーヴェン「第九」交響曲もその一つだ。音楽をこよなく愛するドイツ兵たちは、収容所内で複数の楽団を結成した。そのうちの一つである「徳島オーケストラ」は、大正7年(1918)6月1日、収容所内のホールで「第九」の全曲演奏を行った。これがアジアで最初に響いた「第九」の演奏だ。この史実に着目して、昭和57年、鳴門市文化会館の柿(こけら)落し公演として、公募により集まった377人の市民が高らかに「第九」を歌い上げた。当初は鳴門市の事業として、平成15年からは「鳴門『第九』を歌う会」が運営の主体となり、鳴門市と共催で毎年6月に演奏会を行っている。初演から100年の記念すべき年となる平成30年の演奏会も大いに盛り上がった。
 年齢も、性別も、国境も関係なく、皆で心を一つにして楽しめるのが音楽の魅力。「平成29年3月には日・独・中・米4カ国の市民約300人がドイツのリューネブルク市で公演。観客席では俘虜の子孫50人も見守ってくださいました」と、副理事長の浅野司郎さん。「第九」が市民の絆を結び、国際交流の架け橋となっているのだ。

ロボット人形により再現された「第九」の演奏風景(鳴門市ドイツ館)

平成30年6月に行われた公演の様子。「歓喜の歌」が高らかに響きわたった
『ドイツさん』を感じながら鳴門の町をそぞろ歩き

 収容所の跡地は、現在、「ドイツ村公園」として整備され、バラッケの基礎や給水場跡などが残された一帯は、市民の憩いの場となっている。大麻比古神社の敷地内に流れる板東谷川に架かる「ドイツ橋」と、心願の鏡池に架かる「めがね橋」は、大正8年に俘虜たちが築造した石積みの橋。ドイツへの帰国を前に、この地へ記念になるものをと考えた俘虜たちが、持てる技術を生かして造ったのだ。
 岡則充(おかつねみつ)さんの祖父が昭和12年に開業した「ドイツ軒」では、ライ麦などを使ったドイツパンを販売している。岡さんの祖父は、俘虜にパン作りを学んで大正8年に徳島市内でドイツ軒を開いた藤田只ノ助さんの弟子。藤田さんからの暖簾(のれん)分けで店を開いたという。そこで昭和49年、鳴門市とリューネブルク市が姉妹都市盟約を締結したことをきっかけに、岡さんはドイツ人マイスターのアドバイスを受けて、7種類のドイツパンを作り始めた。「鳴門の地らしいパンとして好評です」と岡さんはほほ笑む。
 四国に残された収容所をめぐるエピソードは、戦争という非常時にあっても、四国人が温かいおもてなしの心を持ち続けたことを教えてくれた。そこで咲いた「友好の花」は、今も育まれている。

ドイツ橋とめがね橋

当時の日本にはなかった高度な技術を用いて建造された「ドイツ橋」(左)と「めがね橋」(右)

ドイツ村公園の門

ドイツ村公園は、かつての板東俘虜収容所跡地。公園入口には当時の雰囲気を再現した門がある

ドイツ橋とめがね橋

「ドイツ軒」が製造しているドイツパン

ドイツ村公園の門

「わざわざドイツパンを求めに来る観光客もいます」と岡さん

お問い合わせ

● 鳴門市ドイツ館

住所

徳島県鳴門市大麻町桧字東山田55-2

電話番号 088-689-0099
開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日 第4月曜日(祝日の場合、その翌日)年末(12月28日~12月31日)
URL http://doitsukan.com