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種田 山頭火(写真提供/藤岡 照房さん)

 すべてを捨て自由を追い求めた、漂泊の俳人・種田山頭火。五七五の定型に縛られない自由律俳句を代表する俳人として知られる山頭火だが、その生涯には、母と弟の自殺、実家の没落、一家離散、自殺未遂、酒による数々の失態など、常に絶望と孤独の匂いがつきまとう。
 山頭火が10年以上もの流転の末、死に場所として選んだ地は四国・松山。苦しみを抱え、貧窮していた山頭火を受け入れ、手を差し伸べてくれる温かなまちだったことがその句からも読み取れる。
 この地で、貧しくも、心の平安を得て、数多くの句を詠み、自由闊達に書をしたためた。
 そして現在、山頭火が晩年を過ごした松山や遍路で歩いた地域で、彼の俳句と生きざまを愛し、より広く知ってもらおうと活動を続ける人々がいる。彼らの行動から、山頭火晩年の姿が見えてきた。

ひよいと四国へ晴れきっている秋空差してお城が見えます
年表1
年表2
山頭火、流転する波乱に満ちた神勢

 種田山頭火、本名正一(しょういち)は明治15年(1882)、山口県西佐波令(にしさばれい)村(現防府(ほうふ)市)に生まれた。名家の生まれで何不自由なく育ったが、9歳のときに実母が自殺。この出来事が彼に生涯消えない影を落とすことになる。
 一方、学業は優秀で、13歳頃から俳句にも目覚め、19歳で早稲田大学の文学科に入学。だが、神経衰弱によりわずか2年で退学し、郷里に戻ったものの、父親の放蕩(ほうとう)や借金で実家は没落。大道(だいどう)村(現防府市)に移り、一家は再起をかけて酒造業を営むこととなる。
 この頃、正一は26歳。結婚し、男児をもうけるも、家業は杜氏や蔵人に任せていた。定型 俳句を俳誌に投稿し、句会に参加するなど、句作にのめり込んでいった。
 大正2年(1913)には、全国的俳誌『層雲(そううん)』に投稿を始めている。俳号を山頭火と改め、『層雲』の俳句選者にまで推挙されるも、酒造業の失敗により破産。山頭火はつてを頼って妻子を連れ熊本へ。その後、単身上京し、妻とも離婚。職を転々とした後、熊本に戻ると、大正13年(1924)に泥酔して市電の前に立ちはだかるという事件を起こす。これをきっかけに出家した山頭火は修行を積み、味取(みとり)観音堂(熊本県植木町)を管理する仕事を得たが、孤独な生活に耐えられず、大正15年(1926)、43歳で托鉢の旅に出るのであった。

まつすぐな道でさみしい分け入つても分け入つても青い山
山頭火とともに旅した鉄鉢・煙草入れ・キセル(写真提供/松山市立子
山頭火とともに旅した鉄鉢・煙草入れ・キセル(写真提供/松山市立子)
托鉢姿の山頭火
托鉢姿の山頭火
(写真提供/藤岡照房さん)
終焉の地松山終の棲家・一草庵(いっそうあん)

 10年以上、各地を転々。昭和の初めには四国遍路にも赴いている。熊本や山口に定住を試みるも叶わず、自分の命が長くないことを悟ると、死に場所を求めて、昭和14年(1939)10月、広島から四国・松山へと渡った。すでに56歳になっていた。
 なぜ晩年の山頭火は松山を目指したのか。「松山の俳人・野村朱鱗洞(しゅりんどう)の墓参りと、自殺した母を四国遍路で供養したかったのでしょう。最初の遍路で親切にされた松山の人々に良い印象も抱いていたようです」と、「NPO法人 まつやま山頭火倶楽部」の太田和博さん。俳誌『層雲』の選者として活躍するも若くして亡くなった朱鱗洞を山頭火は高く評価していた。早々に墓参りを果たすと、その足で母の位牌を背負い2度目の四国遍路に向かう。しかし、托鉢もうまくいかず、厳しい寒さに耐えかねた山頭火は遍路を途中で断念し、高知から急ぎ松山に戻っている。
 疲れ果てた山頭火を温かく迎えたのは、俳人・高橋一洵(いちじゅん)や藤岡政一(まさいち)をはじめとする松山の人たちだった。出会って間もない山頭火のために、彼らは一軒の家を世話している。松山城北側の、御幸寺山(みきじさん)の山裾にひっそりと佇む小さな家が、終の棲家「一草庵」だ。ここで山頭火はその生涯で初めての月例句会「柿の会」を開き、日々の暮らしの中から珠玉(しゅぎょく)の句を作り上げていく。
 また、山頭火は温泉も好きだった。「一浴一杯」とは彼の造語だが、道後温泉で入浴を楽しみ、風呂上がりの一杯を楽しむ。そんな人間らしいひとときを味わっていたことが、残された日記や句からもうかがい知れる。

ずんぶり温泉のなかの顔と顔笑ふ
「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」の皆さん。左から、芳野友紀さん、太田和博さん、穴吹明さん
「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」の皆さん。左から、芳野友紀さん、太田和博さん、穴吹明さん
山頭火が住んでいた頃の一草庵。山頭火はここで友と語り、句会「柿の会」を催すなど、心豊かな晩年を過ごした(写真提供/藤岡照房さん)
山頭火が住んでいた頃の一草庵。山頭火はここで友と語り、句会「柿の会」を催すなど、心豊かな晩年を過ごした
(写真提供/藤岡照房さん)

 一杯だけに止まらず泥酔し、周りに迷惑をかけることも一度や二度ではなかったが、それでもツケを支払ったり、路上で寝てしまった山頭火を家まで連れて帰ったり、人々は温かく見守った。

おもひでがそれからそれへ酒のこぼれて酔うてこほろぎと寝てゐたよ

 松山を訪れた日から約1年後の昭和15年(1940)10月、心臓麻痺で死去。生前から望んでいた通りの“ころり往生”だった。死後、一草庵は荒れるに任せていたが、有志の尽力で昭和27年(1952)に再建された。
 現在、一草庵では週末や祝日に内部を公開。「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」のメンバーがガイドを務め、国内外から多くのファンが訪れる。「山頭火の自由さに惹かれる人は今も多く、お遍路さんの中には彼が歩いた道をたどる人も少なくない。山頭火のような生き方はできないが、その句を読めば、彼の人柄に触れられる気がします」と太田さん。
 毎年、命日の近くには「山頭火一草庵まつり」が開催され、山頭火をテーマにした琴の演奏会や山頭火に関する知識力を試す「山頭火検定」などが行われている。
 松山の人々が山頭火を囲んで句会を楽しんだように、今なお一草庵は山頭火と愛好家たちを結ぶ場として存在し続けている。

濁れる水の流れつゝ澄むもりもり盛りあがる雲へあゆむ
一草庵を訪問するアメリカの俳人
一草庵を訪問するアメリカの俳人
(写真提供/NPO法人 まつやま山頭火倶楽部)
山頭火の収骨を終えて撮った写真。
山頭火の収骨を終えて撮った写真。前列左から、村瀬千枝女、藤岡照房、親友の久保白船、照房氏の妹・絢子。後列左から、高橋一洵、村瀬汀火骨。一番右が藤岡政一
(写真提供/藤岡照房さん)
山頭火一草庵まつり
命日である10月11日の前の日曜日に開催される「山頭火一草庵まつり」。法要の後、山頭火検定、コンサートなどが行われる
(写真提供/NPO法人まつやま山頭火倶楽部)
「山頭火検定」の様子と公式テキスト
「山頭火検定」の様子と公式テキスト
(写真提供/NPO法人 まつやま山頭火倶楽部)
一草庵夏の子どもまつりで山頭火紙芝居を見る子どもたち
一草庵夏の子どもまつりで山頭火紙芝居を見る子どもたち
(写真提供/NPO法人 まつやま山頭火倶楽部)
一草庵で今年4月に開催された第13回公開俳句大会
一草庵で今年4月に開催された第13回公開俳句大会
(写真提供/NPO法人 まつやま山頭火倶楽部)
小さきものを愛し、小さきものから愛された山頭火

 晩年の山頭火の印象について、当時、彼と親交の深かった藤岡政一の長男、藤岡照房さんに話を聞いた。
 「思い返してみれば、優しい人でしたね」とほほ笑む。山頭火が父の政一宅を訪ねていた当時、藤岡さんは7歳。小学校から帰って来るやいなや、2階の客間へ駆け上がって行き、絵を描いたり、おしゃべりをしたりして遊んでもらったという。藤岡さんの妹も、彼が訪ねてくると「おじいちゃん!」と飛びつき、その勢いに山頭火がひっくり返りそうになるほどの懐(なつ)きようだったという。
 「わざわざキャラメルをお土産に持って来てくれることもありました。私にとっては父方、母方に次ぐ、3番目のおじいさんみたいな存在でした」と目を細める。遠く満州で暮らす実の孫に接するような気持ちで、照房少年に優しい眼差しを向けていたのだろう。
 山頭火研究家でもある藤岡さんは、彼は人の懐具合を見分ける眼力があったと話す。「相手に無理のない範囲で、友人や支援者に無心したり、おごられたりしていました。相手の給料を言い当てることもできたそうですよ」と笑った。
 常に金策に悩み、やむなく絶食する日も多かったが、「わが家で米を借りても、お金が手に入ると必ず返しに来たそうです」。自由奔放なようで、律儀な一面もあった。
 「彼は育ちも良く、当時としてはかなりの知識人で話題も豊富。さまざまな苦労を経験したにも関わらず、柔らかな心を持ち続けた人でした」と藤岡さん。やはり、俳句だけでなく人間的に大きな魅力があった。だからこそ、皆が彼を温かく見守っていたと想像できる。
 山頭火の俳句や日記には、草花や虫、小動物がしばしば登場する。明日の米に事欠いても、庵に生ける花を欠かさなかった山頭火。その小さなもの、美しいものに目を向ける心の優しさ、繊細さこそが、今なお皆に愛される理由ではないだろうか。

霊の峰ごくごくおつぱいおいしからう打つよりをはる蟲のいのちのもろい風
一草庵で今年4月に開催された第13回公開俳句大会
山頭火直筆の葉書。山頭火は昭和15年5月から6月にかけて中国・九州地方へと旅に出ている。その旅の途上、山口県の俳人で句友の黎々火(れいれいか)宅を訪ね、近況と旅の予定を藤岡政一に書き送った。絵は黎々火によるもの(提供/藤岡照房さん)
一草庵で今年4月に開催された第13回公開俳句大会
山頭火研究家で「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」の理事長を務める藤岡照房さん
「山頭火のみち」を後世に継承

 正岡子規を生んだ俳都松山には、俳句や短歌の革新を果たした子規を顕彰する「松山市立子規記念博物館」がある。ここで、平成29年9月から30年3月にかけて「山頭火と松山の人びと」と題した小展示が行われた。

 この展示では山頭火直筆の掛け軸や色紙、短冊など、博物館が新たに収蔵した23点の資料を公開。「資料は松山の俳人で山頭火と親交のあった村瀬汀火骨(ていかこつ)・千枝女(ちえじょ)夫妻にゆかりの貴重なものです」と学芸員の平岡瑛二さん。

 現在、博物館では定期的に俳句教室も開催。俳句の普及に大きな役割を果たしている。

松山市立子規記念博物館 学芸員 平岡瑛二さん
松山市立子規記念博物館
学芸員 平岡瑛二さん
一草庵時代の山頭火直筆の書
一草庵時代の山頭火直筆の書「濁れる水のなかれつゝ澄む」(写真提供/松山市立子規記念博物館)
松山市立子規記念博物館
松山市立子規記念博物館

お問い合わせ

● 一草庵

住所

愛媛県松山市御幸1-435-1

電話番号 089-948-6891(松山市教育委員会文化財課)
内部公開時間 土曜日、日曜日、祝日 9:00~17:00 ※閉館時間は季節により変動。外観は見学自由
URL https://www.city.matsuyama.ehime.jp/shisetsu/bunka/issouan.html

● NPO法人 まつやま山頭火倶楽部

電話番号 090-6882-0004

● 松山市立子規記念博物館

住所

愛媛県松山市道後公園1-30

電話番号 089-931-5566
入館料 常設展・一般400円
開館時間 5月~10月 9:00~18:00(入館は17:30まで)
11月~4月 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 火曜日 ※年度、季節により変動
URL http://sikihaku.lesp.co.jp/
「山頭火のみち」を後世に継承

 四国遍路結願の地、86~88番札所のある香川県さぬき市には、山頭火の句碑がいくつも建立されている。

 この句碑の情報を丹念に拾い集め、「さぬき市を歩いた山頭火」として一冊にまとめたのが「おへんろつかさの会」の木村秀雄さんだ。

 20年ほど前から旧長尾町山頭火顕彰会やまちの有志によって建てられた句碑は80基余り。その多さから、かつては「山頭火のみち」と呼ばれたほどだった。大窪寺境内にはこの寺を詠んだ「ここが打留の水があふれてゐる」の句碑がある。

 もともと山頭火に憧れがあった木村さん。顕彰会なき今、忘れられかけている句碑を郷土の文化資料として後世に残したいという思いがある。

さぬき市をあるいた山頭火
平成27年発行。さぬき市の「前山おへんろ交流サロン」と高松市の香川県立図書館で閲覧可能
88番札所・大窪寺境内の山頭火句碑
88番札所・大窪寺境内の山頭火句碑「ここが打留の水があふれてゐる」。結願の大窪寺を詠んだ
87番札所・長尾寺境内の山頭火句碑「人生即遍路」“人生すなわち遍路なり”の意味
87番札所・長尾寺境内の山頭火句碑「人生即遍路」“人生すなわち遍路なり”の意味
86番札所・志度寺境内の山頭火句碑「月の黒鯛ぴんぴんはねるよ」
86番札所・志度寺境内の山頭火句碑「月の黒鯛ぴんぴんはねるよ」
「おへんろつかさの会」木村秀雄さん
「おへんろつかさの会」木村秀雄さん

山頭火の俳句は、句集や句碑などによって表記が異なることがあるため、本文中の俳句は「山頭火検定」に準じています