飛鳥時代(592〜710年)には、既に焼物が作られていたという砥部町。ただし当時焼かれていたのは、「土もの」と呼ばれる陶器で、磁器への転換が図られたのは江戸時代中期、伊予国大洲の大洲藩が財政を支えるため新たな産業に取り組んだのがきっかけ。砥部町は伊予砥(いよと)と呼ばれる砥石の産地であり、その屑(くず)を使って磁器づくりをしようと考えたのだ。1777年(安永6)に、白磁器の焼成に成功して以後、改良が重ねられ、大正時代には「伊予ボール」の名で海外に輸出されるまでになった。
戦後は民藝(みんげい)運動を提唱した柳宗悦(やなぎむねよし)らが現在の砥部焼を見出し、「用の美(風土に根ざした工芸品に宿る美しさ)」を体現する焼物としてその名を知られるようになった。1976年(昭和51)には、国の伝統的工芸品に指定され、愛媛を代表する焼物としての地位を確かなものにした。
平成に入り、安価な輸入品の台頭などにより、国内の焼物産地は苦境に立たされた。砥部焼も例外ではなく、窯元らは新たな方向性を模索し始める。手づくりの良さを残しながら、新しいデザインに挑戦したのもその一つ。また、一般的な砥部焼の和食器にこだわらず、生活スタイルに合わせた洋食器なども手がけるようになった。さらには、工房にギャラリーショップを併設し、直販に力を入れる窯元も出てきた。
そうした流れを受けて、若手作家や女性作家も増え、それぞれが個性を競い合いながら砥部焼の火を灯し続けようと奮闘。「きよし窯」の山田ひろみさんもその1人だ。