ライト&ライフ9月号
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01/松山市中心部から約10kmという近さながら、山々に抱かれた砥部町はのどかな雰囲気。町内とその周辺地域には約100軒の窯元が点在している02/砥部町の松山市側からの入り口にある高さ15mの陶街道夢タワー「愛伊砥(えいと)くん」。町内には他にも砥部焼のオブジェが点在している03/「陶房くるみ」の窯出しの様子。砥部焼はろくろや手びねり、たたら作り(※2)などで成型し、素焼きの後、絵付けを行う。その後、窯で焼く際の予期せぬ色の変化(窯変)により、独特の色合いに仕上がる (※2)たたら作り…板状の粘土を使って作品を作ること04/「atelier LUXE」でろくろを回す。手作業を重んじる点が砥部焼の高い評価につながっている 飛鳥時代(592〜710年)には、既に焼物が作られていたという砥部町。ただし当時焼かれていたのは、「土もの」と呼ばれる陶器で、磁器への転換が図られたのは江戸時代中期、伊予国大洲の大洲藩が財政を支えるため新たな産業に取り組んだのがきっかけ。砥部町は伊い予よ砥とと呼ばれる砥石の産地であり、その屑くずを使って磁器づくりをしようと考えたのだ。1777年(安永6)に、白磁器の焼成に成功して以後、改良が重ねられ、大正時代には「伊予ボー・ル」の名で海外に輸出されるまでになった。 戦後は民みん藝げい運動を提唱した柳やなぎ宗むね悦よしらが現在の砥部焼を見出し、「用の美(風土に根ざした工芸品に宿る美しさ)」を体現する焼物としてその名を知られるようになった。1976年(昭和51)には、国の伝統的工芸品に指定され、愛媛を代表する焼物としての地位を確かなものにした。 平成に入り、安価な輸入品の台頭などにより、国内の焼物産地は苦境に立たされた。砥部焼も例外ではなく、窯元らは新たな方向性を模索し始める。手づくりの良さを残しながら、新しいデザインに挑戦したのもその一つ。また、一般的な砥部焼の和食器にこだわらず、生活スタイルに合わせた洋食器なども手がけるようになった。さらには、工房にギャラリーショップを併設し、直販に力を入れる窯元も出てきた。 そうした流れを受けて、若手作家や女性作家も増え、それぞれが個性を競い合いながら砥部焼の火を灯し続けようと奮闘。「きよし窯」の山田ひろみさんもその1人だ。 山田さんが「きよし窯」の二代目公夫さんと結婚したのは1981年(昭和56)。結婚前にグラフィックデザイナーとして働いていた山田さんは「もっと可愛い、華やかな砥部焼があるといいのに」と感じていた。だが、焼物に関しては素人だった山田さんは、その思いを口に出せないまま窯の仕事を習い覚える日々を過ごした。 結婚から3年目、山田さんはふとした思い付きから砥部焼の雛人形をつくる。「私は子ども時代にお雛さまを持っていなかったの。そ01020304陶器から磁器へ歴史ある焼物可愛くて華やかな新しい砥部焼を3

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