5_初めて上京し、大いに刺激を受けた20歳頃の富太郎★6_酒蔵の土蔵などが立ち並ぶ佐川町上町地区。名教館や青山文庫など、富太郎ゆかりのスポットが集中するエリア7_少年時代の富太郎が一人で遊んでいた金峰神社。植物は富太郎にとって友人のような存在だ8_「新研究棟など園内には見所が増えています」と話す高知県立牧野植物園の広報担当・橋本さん小学校を中途退学独学で植物の研究に没頭大きく進歩させた富太郎日本の植物分類学を※1/郷学…江戸時代から明治の初めに、藩士や庶民の教育のために設けられた学校※2/九十年…最初、富太郎は「五十年」と詠んだが、自身が年を重ねるにつれて修正をした 牧野富太郎の生家は佐川町で酒造を営む裕福な商家であったが、3歳から6歳までの間に父、母、祖父を相次いで亡くした。祖母の浪子は不幸な孫を溺愛し、欲しがるものはなんでも与えたという。富太郎は病弱であったが、好奇心や探究心が旺盛で、番頭が持っていた時計の仕組みが気になり、分解して構造を調べたという逸話も残っている。また幼い頃から私塾で習字や漢学を学び、11歳から通い始めた郷ご学が(※1)「名め教こ館」では地理・天文・物理を学んだ。 学校制度が整い始めた1874年(明治7)、廃校になった名教峰ぶ神社。境内で採集した「バイカ 「そのため富太郎は2年で自主館に代わり、佐川小学校に通い始めたが、富太郎はそれまでに学んだ学問に比べると物足りなさを感じた。退学。以後は読書や植物に親しむ日々だったそうです。特に夢中になったのは、親友の父親から借りた本ほ草ぞ学(薬用となる植物や動物、鉱物を研究する学問)の書籍。これを写本し、植物の名を調べ、探すことに没頭したようです」と話すのは、「高知県立牧野植物園」広オウレン」の花は、彼が生涯愛した花の一つである。 後に富太郎は「草を褥しとね(布団)に木の根を枕、花と恋して九十年(※2)」という歌を詠んだが、人生をかけた「恋」は、故郷である佐川町から始まったのだ。富太郎は15歳から佐川小学校の臨時教員として教鞭を執ったが、学について学んだ。1881年(明と足を運び、参考書やドイツ製の治14)には初めて上京。博覧会へ顕微鏡を手に入れた。また有名な植物学者たちの話を聞いたり、植物園に足を運んだりして見聞を広めたという。帰途には日光や箱根、琵琶湖国定公園内にある伊吹山にも足を伸ばし、植物採集を行った。 いったんは高知へと帰ったが、「もっと植物の研究に邁進したい」と、1884年(明治17)に再び上京。東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、以降10年近くは東京と高知を頻繁に往復しながら採集と研究を進めた。 「植物学の分野において、富太郎が大きな功績を残せた背景には、3つの要素があると思います。その第1が気概。日本の研究を進歩させるために、日本人が見つけた日本の植物に学名を付け、日本の雑誌で発表することにこだわってくういううん 56783の報遊課びの場橋は本、渉自さ宅んの。裏当に時あのっ富た太郎金きん2永年沼で小こ退一いち職郎ろう。に高師知事師し範、学欧校米のの教植諭物・
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