ライト&ライフ3月号
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華やかな業績の裏で富太郎を支えた愛妻自分を慕う人々を富太郎は丁寧に指導した。こうした活動は日本の植物分類学の底上げにつながったことに加えて、そこで交流を結んだ在野の人々が与えてくれる情報を、自身の研究に役立てることもできた。 観察力、描写力、構成力により形づくられた『牧野式植物図』と、富太郎が築いたネットワークの集大成ともいえるのが、1940年(昭和15)に発刊された『牧野日本植物図鑑』。3,200点以上の植物を掲載したこの図鑑は版を重ねて、現在『新牧野日本植物図鑑』となり、多くの人を植物の世界へと案内している。 「ムジナモ」の発見と前後して、 私生活では1888年(明治ある壽す衛えと所帯を持つ。2年後の1890年(明治23)、富太郎は江戸川の用水池で「ムジナモ」を発見する。花の精密図はヨーロッパの文献にも引用され、「牧野富太郎」の名は世界へと広まった。しかし立派な功績を上げれば上げるほど、それを妬む人もいた。富太郎に反感を持つ教授陣により帝国大学理科大学植物学教室への出入りを禁止されてしまったのだ。これに憤慨した富太郎は、ロシアの植物学者カール・ヨハン・マキシモヴィッチを頼ってロシア移住を計画するが、マキシモヴィッチの急死により断念した。さらに追い討ちをかけたのは、貧乏との戦い。実家からの仕送りで生活費や研究費を賄っていたが、徐々に実家は傾いていく。壽衛は金策に走り、経済観念の全くない富太郎を必死で支えた。お坊ちゃん育ちの富太郎は、高額な書籍を躊躇なく購入するなど、研究のためにお金を惜しまず費やした。時には家賃に窮することもあり、約ある。壽衛はそんな夫に愚痴一つこぼさず、やりくりと子育てに奔走した。1928年(昭和3)、壽衛は54  5歳で他界した。その年、富太郎は仙台で発見した新種の笹に「スエコザサ」と名付けた。それは、苦労をかけた妻への最後の贈り物となった。131415_研究一筋の富太郎を献身的に支え続けた愛妻・壽衛★16_高知県立牧野植物園内に植栽された「スエコザサ」。富太郎が愛妻に捧げた句の碑もある13_胴乱(植物採集用の入れ物)を肩に掛けた75歳の富太郎★14_北隆館から出版された『牧野日本植物図鑑』の初版本。新たな事実が分かる度に書き加えられ再版された(『牧野日本植物図鑑』初版本1940年発行・株式会社北隆館刊)★151630回も引越しをしたという逸話も21)、26歳で東京の菓子屋の娘で

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