ライト&ライフ6・7月号
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大正時代に始まったアコヤ真珠の養殖オリジナルデザインで新しい真珠アクセサリーをきんごあかつ 宇和島市沖に広がる宇和海は日本トップクラスの真珠の生産地として知られている。その基礎を作ったのは、北宇和郡岩松村(現在の宇和島市)で生まれた小西左さ金吾だ。小西はこの海域に生息するアコヤ貝が、まれに天然真珠を持っていることに目を付け、1913年(大正2)から本格的に真珠養殖を開始。以降、複数の先人が養殖に取り組み、宇和海は真珠養殖場として全国に知られるようになった。 第2次世界大戦後は、真珠養殖の先駆地である三重県の大手養殖業者が、漁場を求めて愛媛県へとやってきた。宇和海の真珠養殖の急拡大に伴い、地元の漁師は真珠を育てるための母貝の養殖を開始。愛媛県では母貝と真珠、両方の養殖が盛んになった。やがて母貝の養殖業者も真珠養殖を始めるようになり、海外で真珠が人気を博していたことも相まって大いに潤った。 ところが、1967年(昭和42)、真珠の輸出価格が暴落し、その後も下がり続けた。いわゆる真珠不況の始まりだ。その理由は、生産過剰と品質低下であるといわれており、これにより愛媛県に進出していた県外業者は撤退してしまった。しかし地場の養殖業者は、家族経営が多かったことが幸いし、大半が事業を続けることができた。母貝が手に入りやすく、漁協や漁連の指導で地域を挙げて品質向上に取り組んだことも功を奏した。1974年(昭和49)、愛媛県の真珠生産量は三重県を抜いて初めて日本一となる。しかし、その後もバブル崩壊後の真珠価格の下落、原因不明のアコヤ貝の大量死など、苦難は続く。加えて、かつてはフォーマルなアクセサリーの定番として成人や結婚を機に真珠を購入する人が多かったが、そうした習慣も薄れつつあった。「もっと真珠を身近なものにしたい」と、1998年(平成10)に暁き工関係の仕事に就いていた橋本さんは、Uターンして真珠加工の会社に就職し、技術を一から学んだ後、独立。当時、市内には指輪やブローチを、真珠をはめ込むためのフレームから作る加工業者はなく、デザインのバリエーションも限られていた。彫金技術を身に付けて、デザイ0403010201_橋本さんの高い彫金技術により、真珠の美しさが際立っている作品の数々02_それぞれがテーマを持って製作に取り組む橋本夫妻。えりかさんは一般社団法人 日本真珠振興会認定SP(パールスペシャリスト)でもあり、各種講座などで真珠の魅力を伝えている03・04_1つのアクセサリーを仕上げるには、いくつもの工程を要する。「細かな作業の連続で片時も気が抜けません」と話す橋本さん  3身房のを橋立ち本暁あ上きらさげたんの。県は外、宇で和デ島ザ市イ出ン

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