祖父母宅で読みふけった本心に傷を遺した戦争体験会社員からフリーランス多彩な分野で才能を発揮 やなせたかし先生(以下:先生)の両親は香美市香北町出身。父の柳瀬清は新聞記者をしていたが、先生が幼い頃に単身赴任先の中国で亡くなった。「2歳下の弟・千尋は南国市で医師をしていこ先か生疎は香外北感町を朴ほ感おノじの木たき地のだ区ろにあうっかた。た伯父の養子となりましたが、先生(当時5歳)は母親と共に高知市に住むことになりました」と説明するのは、「香美市立やなせたかし記念館(以下:記念館)」の学芸員・澤村明信さん。 2年後、母が再婚したため、先生は千尋のいる伯父夫婦の元に預けられる。養子縁組をしていた千尋は、すっかり伯父の家での生活になじんでいた。伯父夫妻は先生のことも大切にしてくれたが、ど父の実家に通い、井伏鱒二や太宰治らの本を読みあさった。そして本と同じくらい好きだったのが絵を描くこと。そこで商業デザインを学べる東京高等工芸学校工芸図案科に進学し、卒業後は製薬会社の宣伝部に入社した。折しも第二次世界大戦の戦況は悪化しつつあった。入社の翌年、召集され、のち中国大陸へと出兵した。生きて終戦を迎えることができたが、戦争は弟の千尋を奪った。千尋はハンサムで頭もよく、運動もできた。京都帝国大学(現・京都大学)入学後に志願して海軍に入隊。戦場で22歳の生涯を閉じた。現在も読み継がれている詩集『おとうとものがたり』は、先生が千尋に抱いていた複雑な思いと愛情が入り交じった名作である。戦後、先生は高知新聞社に入社。社会部記者を経て、雑誌「月刊高知」の編集室に配属された。こ後こにで妻雑と誌なづるく暢のぶりとの出イ会ロっハたを。編学集び、業に打ち込みながらも、「絵を描く仕事をしたい」という気持ちを抑えきれず上京。三越百貨店の宣伝部に入社し、現在も使われている三越の包装紙「華ひらく」の誕生にも一役買った。「猪熊弦一郎画伯が、あの抽象的な形を描かれたことはよく知られていますが、ローマ字で描かれた店名のレタリングは先生の手によるもの」と澤村さん。「華ひらく」は猪熊画伯と先生という、四国ゆかりの2人のクリエーターの共同成果ともいえるだろう。こうした仕事の合間に、先生は新聞や雑誌に漫画を投稿し、若手漫画家集団「独立漫画派」に参加。漫画の投稿という副業に精を出0907・08_記念館の収蔵庫の外壁には、モザイクタイルで描かれたアンパンマンや09_「やなせたかし朴ノ木公園」の一角。アンパンマンとばいきんまんの像は記050606_学芸員の澤村明信さん070805_「香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム&詩とメルヘン絵本館」前には、 開館15周年に建てられた「たたかうアンパンマン像」がある☆★ばいきんまんの大きな顔。撮影スポットとしても人気☆★念館を向いている。真ん中の石は墓碑★ 3
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