ライト&ライフ2・3月号
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自身の体験から生まれた犠牲をいとわないヒーロー 4した。入社から6年後、ついに副業の収入がサラリーを超えたことから、先生は三越を退社して独立する。34歳のときだ。 以降、がむしゃらに仕事に取り組んだ先生。画業だけではなく、インタビュアー、舞台美術、ラジオやテレビの構成、映画の脚本など多彩な分野でその才能を発揮。業界では「困ったときのやなせさん」と呼ばれるほど重宝されたという。人脈もどんどん広がり、宮城まり子、永六輔、いずみたくら著名人と親交を深めていった。そんな多忙な日々を過ごしていがらも行き詰まりを感じていた先生は、夜の仕事場でふと自身の手に懐中電灯の光をあてた。すると自分はくたびれきっているのに、手のひらには赤く熱い血が流れていることに不思議さと美しさを感じた。そこから生まれたのが「手のひらを太陽に」の歌詞。これが大ヒットし、現在も歌い継がれていることは皆の知るところであろう。 多方面で活躍していたが、後輩たちが漫画家として活躍する様子をうらやましいとも思っていた先生が、取り組んでいたのはセリフ(吹き出し)のない「パントマイム漫画」。言葉がなくても伝わる、世界共通の表現を追求したのだ。1967年(昭和42)、帽子を目深にかぶって表情の見えない主人公が登場する「ボオ氏」で週刊朝日マンガ賞を受賞。画業での評価により、漫画家としての将来に一筋の光が差し込んだ。「アンパンマン」は、長い時間をかけて醸成されたキャラクター。初めてその名が登場したのは1969年(昭和44)の雑誌「PHP」。「やなせメルヘン」と称される、創作メルヘンと挿絵で構成されている小作品だ。これにはボロボロのマントを着た太ったおじさんが、戦争で食べ物のない子どもたちにアンパンを配るという物語が描かれた。1973年(昭和48)発表の絵本『あんぱんまん』で、今もなじみの深い、顔がアンパンでできた姿を初公表。その後、1975年(昭和50)から雑誌「詩とメルヘン」で連載された『怪傑アンパンマン』、翌年いずみたくと取り組んだミュージカル版『怪傑アンパンマン』なども発表し、いつしかアンパンマンは先生のライフワークとなっていた。1010_画業で初めて賞をもらった作品「ボオ氏」。帽子と某氏を掛け合わせた名前で、11_虫プロダクション(手塚 治虫 設立)のアニメ映画『千夜一夜物語』の制作を手伝ったところ大ヒット。そのお礼に映画『やさしいライオン』を作らせてもらった。11はフレーベル館の絵本の表紙画☆12_雑誌「詩とメルヘン」創刊号の表紙絵。カップルをモチーフにした鮮やかな色彩で、季節も感じさせるのが特徴。同誌はサンリオが版元☆2025.02-031211やなせ作品にはしばしば登場するキャラクター☆☆=Ⓒやなせたかし ★=Ⓒやなせたかし/フレーベル館・TMS・NTVやなせたかし先生の人生に学ぶた 42歳の頃、好きな漫画を描きな

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