ライト&ライフ2・3月号
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なぜ、先生はアンパンマンを描き続けたのか。その理由の一つは幼少期の原体験。財布を落として困っていた少年時代、通りかかった友人母子に助けてもらい、アンパンを与えられたのだ。そしてもう一つ、戦時中は正義のための戦争だと喧伝されていたのに、戦後は一転して侵略戦争といわれた。「『正義はある日、突然逆転するものだ』と考えた先生は、逆転しない正義とは何かを考えたそうです」と澤村さん。それらの経験をふまえて行き着いたのは、「お腹が空いた人を、自分を犠牲にして助けることこそが不変の正義だ」ということた絵本、1988年(昭和63)から放映されたテレビアニメにより、アンパンマンの人気は不動となった。押しも押されもせぬ代表作が誕生し、多くの賞を受賞した。先生は古希を迎えていたが、「人生はこれからが本番」とばかりに、「ダン爺」「老いドル」を自称。立ち上げに尽力した「まんが甲子園」では、シルクハットやマント、タキシードなどを身にまとって歌い踊る姿が恒例であった。「先生は『三かく主義(絵を描く、詩を書く、恥をかく)』『人生はよろこばせごっこ』という言葉を残しています。歌も踊りも上手ではないことは百も承知。喜んで、笑ってくれる人がいれば恥をかいても何てことはないと考えていたようです」と澤村さん。みんなを喜ばせたい気持ちは、    5先生が創作したキャラクターの数にも現れている。全国で200以上、高知県内で92のキャラクターを作っており、どれもかわいさだけではなく地域の魅力を表せるようにデザインをしていた。。50歳を越えてから発刊され13141715-17_リニューアル前のアンパンマンミュージアム館内の様子。当施設にしかない描きおろし作品の展示も多数あり、 1615 子どもから大人まで楽しめる施設。どのように変貌するか楽しみだ☆★13_独特の響きとリズム感が評価された先生の詩。哀愁に満ちた言葉が心にしみる☆14_1976年(昭和51)、フレーベル館から刊行された絵本『あんぱんまん』の表紙原画。当時はひらがな表記であった☆

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