長井 渡邊選手は4歳で香川県に引っ越しをされ、高校時代までを過ごされましたが、バスケットボールを始めたのはいつですか。
渡邊 競技を始めたのは小学校1年生のときです。私の両親は共にバスケットボールの実業団選手でした。特に母は日本代表としてプレーしたことがあり、引退してからは地元のミニバスケットボールチームのコーチもしていました。必然的に幼い頃からボールに触れる機会が多く、気付けばバスケットボールを始めていた…という感じですね。自宅のテレビではいつもNBAの試合を見ていて、有名な選手への憧れも、知らず知らずに芽生えていたように思います。
長井 その後、高松市立牟礼(むれ)中学校、尽誠学園高校でも活躍をされましたが、当時、印象に残っていることはありますか。
渡邊 中学2年生だった平成21年に香川県選抜チームのメンバーとなり、第22回都道府県対抗ジュニアバスケットボール大会に出場したことが記憶に残っています。予選リーグを勝ち進むことはできたのですが、決勝トーナメントでは初戦で敗退し、悔しい思いをしました。また高校時代は1年生のときからレギュラーとして全国大会に出場することができ、平成23年と24年「全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会(ウインターカップ)」において2年連続で準優勝できました。また「大会ベストプレーヤー5」にも選んでいただき、とても励みになりました。
長井 高校時代は、まさに日本を代表するプレーヤーとして頭角を現された時期ですね。もちろん、育たれた環境やご自身の恵まれた体格もそうした成果に結びついたのでしょうが、随分と努力もされたのでしょうね。
渡邊 幼いときから父は常に「うまい人はもっと練習をしているぞ」と厳しく指導してくれました。小学生と中学生のときには、休日は毎朝5時半に起床し、6時から7時まではボールハンドリングを練習、部活動を終えた後に10㎞のランニングと、シュート練習1,000本を日課にしていました。シュート練習だけでも4時間ほどかかりました。全部が終わったらクタクタでしたね。自主練習は父とマンツーマンでしたが、続けてシュートを外すとものすごく怒られて、いつまでたっても練習が終わりません。心の中で「ちょっと厳しすぎだろう!」と文句を言っていました(笑)。
長井 そうした努力が、世界でも一握りの選手しか行けないとされるNBAへの道に結びついたのでしょうね。でも、支えてくれたご両親も大変だったのではないですか。
渡邊 それに気付いたのは、尽誠学園高校に進学し、寮生活を始めたときです。何度もシュート練習に付き合ってくれた父。栄養バランスを考えた食事を用意し、ユニフォームを洗ってくれた母を思い、改めて両親への感謝の気持ちが湧き上がってきました。何より、どんなに厳しく辛い練習にも耐えられる体と気持ちを育んでくれたことには、感謝してもしきれませんね。
長井 高校卒業後、アメリカの大学への進学を希望されたわけですが、18歳での大きな決断に不安はありませんでしたか。
渡邊 もちろん不安だらけでしたが、子どもの頃からの夢であるNBAプレーヤーになるためには、アメリカの大学への進学が最も近道だと考えました。両親は反対こそしませんでしたが、「最終的には自分で決めなさい」というスタンスでした。そんなときに背中を押してくれたのが、日本人として初のNBAプレーヤーとなった田臥(たぶせ)勇太選手です。田臥さんは父に「絶対に行かせてあげてください」と言ってくださり、その言葉が僕や両親の背中を押してくれました。
長井 私はどうしても親の気持ちになりますから、生活習慣も言語も違う異国で生活するということに対して、渡邊選手と同じようにご両親も不安だったのではないかと思います。今の時代、親はどうしても子どもに苦労させたくないと思いがちです。私だったら「日本でもいいんじゃないか」と言ってしまうかもしれません。でも、渡邊選手のご両親は、あなたの夢を応援し、断腸の思いで送り出してくれたのでしょうね。
渡邊 父からは、渡米前に「アメリカでは厳しいことが待っている。だが、それを乗り越えたら、向こうで通用する選手になれるんだ」と言われたんです。その言葉は、アメリカでの自分の支えになってくれたように思います。