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バスケットボールリーグの最高峰であるナショナル・バスケットボール・アソシエーション(NBA)において、史上2人目の日本人プレーヤーとなった渡邊雄太選手は、香川県木田郡三木町出身。高いシュート力とディフェンス力を武器に、世界の舞台で目覚ましい活躍を遂げている注目のプロバスケットボール選手です。

昨年6月、四国電力の社長に就任した長井啓介は、電気事業の基盤強化と新たな事業領域の拡大に取り組んでいます。

大きな壁に向かって挑戦を続けている四国ゆかりの2人に、愛する四国に寄せる思い、苦労を乗り越える原動力、新年にあたっての抱負などを語っていただきました。

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(写真提供:AFP/アフロ)

渡邊 雄太(わたなべ ゆうた)選手
1994年10月13日生まれ、香川県出身。尽誠学園高校に進学後1年生より全国大会に出場し、全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会では2011年および12年の2年連続で準優勝。卒業後はアメリカへ留学し、大学進学のためのプレップスクールを経て、ジョージ・ワシントン大学へ進学。18年7月にメンフィス・グリズリーズと契約を結ぶ。写真はNBAサマーリーグで活躍する渡邊選手。2019年7月グリズリーズは同大会で優勝を成し遂げた。

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長井 あけましておめでとうございます。昨年は渡邊選手にとってどのような1年でしたか。

渡邊 記憶に新しいのは、1勝もできていない状況で迎えたバスケットボールのワールドカップの最終戦となったモンテネグロ戦。主将の篠山竜青選手、八村塁選手が欠場した中、「自分の持っている力を最大限に出そう」という気持ちだけで向かった一戦です。第3クオーターで一時は追いついたのですが、第4クオーターの途中で右手薬指を負傷し、ベンチに下がらざるを得ませんでした。本当に悔しかったです。

長井 その試合では、渡邊選手が両軍最多の34得点と孤軍奮闘されましたね。また体を張ったディフェンスにも感動しました。ご自身の力を十分に発揮できたのではないかと感じています。

©Yasushi Kobayashi
渡邊選手が所属するグリズリーズの本拠地メンフィスは、ブルースの聖地として知られている(ホームコート近郊での1枚)

渡邊 そう言っていただくと有難いのですが、日本代表として残念な結果になり、申し訳ない気持ちでいっぱいです。自分自身、プレッシャーに負けてしまった部分もありました。ただ、今は「良い経験をさせていただいた」とも思っており、自分の課題を改めて感じることができたことを収穫として捉えています。

長井 その「収穫」を今後どう生かしていきたいと考えていますか。

渡邊 一昨年、NBAデビューを果たして、ようやくプレーヤーとしてスタートラインに立て、昨夏、ラスベガスで行われたサマーリーグにおいても、実績を残すことができました。日本国内でも、バスケットボールに対する注目が一層高まっていると聞いています。私も、その一翼を担っていきたいと意気込んでいます。ワールドカップの挫折感は、決して無駄にするつもりはありません。

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長井 渡邊選手は4歳で香川県に引っ越しをされ、高校時代までを過ごされましたが、バスケットボールを始めたのはいつですか。

渡邊 競技を始めたのは小学校1年生のときです。私の両親は共にバスケットボールの実業団選手でした。特に母は日本代表としてプレーしたことがあり、引退してからは地元のミニバスケットボールチームのコーチもしていました。必然的に幼い頃からボールに触れる機会が多く、気付けばバスケットボールを始めていた…という感じですね。自宅のテレビではいつもNBAの試合を見ていて、有名な選手への憧れも、知らず知らずに芽生えていたように思います。

長井 その後、高松市立牟礼(むれ)中学校、尽誠学園高校でも活躍をされましたが、当時、印象に残っていることはありますか。

渡邊 中学2年生だった平成21年に香川県選抜チームのメンバーとなり、第22回都道府県対抗ジュニアバスケットボール大会に出場したことが記憶に残っています。予選リーグを勝ち進むことはできたのですが、決勝トーナメントでは初戦で敗退し、悔しい思いをしました。また高校時代は1年生のときからレギュラーとして全国大会に出場することができ、平成23年と24年「全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会(ウインターカップ)」において2年連続で準優勝できました。また「大会ベストプレーヤー5」にも選んでいただき、とても励みになりました。

長井 高校時代は、まさに日本を代表するプレーヤーとして頭角を現された時期ですね。もちろん、育たれた環境やご自身の恵まれた体格もそうした成果に結びついたのでしょうが、随分と努力もされたのでしょうね。

渡邊 幼いときから父は常に「うまい人はもっと練習をしているぞ」と厳しく指導してくれました。小学生と中学生のときには、休日は毎朝5時半に起床し、6時から7時まではボールハンドリングを練習、部活動を終えた後に10㎞のランニングと、シュート練習1,000本を日課にしていました。シュート練習だけでも4時間ほどかかりました。全部が終わったらクタクタでしたね。自主練習は父とマンツーマンでしたが、続けてシュートを外すとものすごく怒られて、いつまでたっても練習が終わりません。心の中で「ちょっと厳しすぎだろう!」と文句を言っていました(笑)。

長井 そうした努力が、世界でも一握りの選手しか行けないとされるNBAへの道に結びついたのでしょうね。でも、支えてくれたご両親も大変だったのではないですか。

渡邊 それに気付いたのは、尽誠学園高校に進学し、寮生活を始めたときです。何度もシュート練習に付き合ってくれた父。栄養バランスを考えた食事を用意し、ユニフォームを洗ってくれた母を思い、改めて両親への感謝の気持ちが湧き上がってきました。何より、どんなに厳しく辛い練習にも耐えられる体と気持ちを育んでくれたことには、感謝してもしきれませんね。

長井 高校卒業後、アメリカの大学への進学を希望されたわけですが、18歳での大きな決断に不安はありませんでしたか。

渡邊 もちろん不安だらけでしたが、子どもの頃からの夢であるNBAプレーヤーになるためには、アメリカの大学への進学が最も近道だと考えました。両親は反対こそしませんでしたが、「最終的には自分で決めなさい」というスタンスでした。そんなときに背中を押してくれたのが、日本人として初のNBAプレーヤーとなった田臥(たぶせ)勇太選手です。田臥さんは父に「絶対に行かせてあげてください」と言ってくださり、その言葉が僕や両親の背中を押してくれました。

長井 私はどうしても親の気持ちになりますから、生活習慣も言語も違う異国で生活するということに対して、渡邊選手と同じようにご両親も不安だったのではないかと思います。今の時代、親はどうしても子どもに苦労させたくないと思いがちです。私だったら「日本でもいいんじゃないか」と言ってしまうかもしれません。でも、渡邊選手のご両親は、あなたの夢を応援し、断腸の思いで送り出してくれたのでしょうね。

渡邊 父からは、渡米前に「アメリカでは厳しいことが待っている。だが、それを乗り越えたら、向こうで通用する選手になれるんだ」と言われたんです。その言葉は、アメリカでの自分の支えになってくれたように思います。

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長井 渡邊選手がプレップスクール(大学進学のための準備学校)を経て進学されたジョージ・ワシントン大学は、アメリカの大学でもかなり強いチーム。それだけにとても厳しい日々だったのではないでしょうか。

渡邊 まず苦労したのは、学業の面です。アメリカの大学では勉強の成績が悪いと、バスケットボールの練習に参加させてもらえないんです。英語の授業についていくために、必死で勉強しました。でも、子どもの頃、両親からは「まず宿題をしなさい」と言われて、宿題が終わらないとボールに触らせてもらえなかったんです。英語の勉強に取り組みながら、改めて両親の教育方針に感謝しました。
 次に大変だったのは体づくり。僕の身長(206㎝)は日本では高い方ですが、アメリカでは並レベル。おまけに体重が軽かったので、練習でも試合でも競り合ったときに倒されることは珍しくありませんでした。フィジカル面での強化に必死で取り組み、大学2年生のときには体重を10㎏増やすことができました。
 挫折というほどではないかもしれませんが、悔しかったのは3年生のときにふくらはぎを故障して、数試合の欠場を余儀なくされたこと。でも、この期間もチームや自分の課題などを客観的に考えることができ、今振り返ってみれば良い経験だったかもしれません。

長井 プレースタイルで日本と違うのはどんなところでしょうか。

渡邊 アメリカの選手は、自分がシュートを決めることに強くこだわっています。そこで必要とされるのは、技術以上にメンタルの強さだと痛感しました。

長井 入学1年目、2年目、共に主力として活躍されました。大学ではどんな点が伸びたのですか。

渡邊 ディフェンス力です。日本ではトップレベルにいた自負がありましたが、体格も身体能力も勝る海外の選手の中では、並のレベルだと感じる日々でした。そして一時期、不調が続いたことがあったのですが、「自分の武器となるものを身に付けなくてはいけない」との思いから、決して諦めないディフェンスを心掛けるようにしました。やがて相手チームのエースをマークするようになり、おかげで大学4年生のときには「ディフェンシブ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤー」を獲得することができました。不調時の苦悩も、ディフェンス能力を開花させるきっかけにつながったと考えています。

長井 なるほど。大きく飛躍された様子が目に浮かびます。

抜群のスピードとボールハンドリングで、オールラウンダーとしての期待も高まる(写真提供:ゲッティイメージズ)

渡邊 一方で、これまでバスケットボール以外のことに、目を向けることがなかったので、「もし、バスケットボールがなかったら、どんな青春を送ったのだろう」と考えることがあります。

長井 渡邊選手はチャレンジスピリットが旺盛ですから、旅に出て大いなる何かを吸収するような青春を送ったかもしれませんね。実は私自身がそんな青春を過ごしまして、大学時代には、ふらりと旅に出ることが多かったです。北海道や東北、沖縄、ヨーロッパなど長いときには1カ月くらい出かけていました。海外に行く際にも往復のチケットと最初の1泊目の宿だけは予約していたのですが、現地では成り行き次第。出会う人から情報を得て、気になった場所に行くという、あてのない旅を楽しんでいました。

渡邊 海外で、言葉は大丈夫でしたか。

長井 それが、まったくダメでした(笑)。でも、同じ人間同士、なんとかなるだろうという精神で乗り切りました。

渡邊 旅先で今も印象に残っている場所や出来事はありますか。

長井 国内では北海道の礼文島。圧倒的な自然を前に自分の存在を見直す良い機会になりました。海外では、やはりコミュニケーションで困ったことが記憶に残っています。列車の乗り換えなどのときに、言葉が分からず、車掌さんとのやりとりに苦慮しました。でも、そういうときには、必ず助けてくれる人がいました。人のやさしさは万国共通なのだと感じましたね。
 また、旅は毎日が切り替えの連続。その日、辛いことがあったとしても、翌日には違う場所に移動して新たな出会いや経験があることで新しい1日を送ることができます。この「切り替える力」というのは、今、ビジネスに取り組む上でも大いに役立っていますね。だから、悩み事の解決手段が見つからないときには、いったん、考えることをやめて別のことをする。すると不思議なもので、解決策がパッと思い浮かぶことがあります。

渡邊 それ、よく分かります。バスケットボールにおいても、切り替えは非常に大切。例えばシュートを外したら、すぐにリバウンドを取らなくてはいけないし、相手にボールを取られたらディフェンスをしなければなりません。少々失敗しても、ゲームは止まってくれませんから、すぐに気持ちを切り替えることが大事です。

長井 スポーツにおいても、ビジネスにおいても、また人生においても、切り替える力はとても大切だということですね。そしてタフなメンタルを持って事にあたれば、困難を打開することができるのでしょう。

(左)今では、身長2mを超える渡邊選手からは全く想像できない愛らしい幼少期 (中央)小学校の入学時 (右)中学校入学時の身長は160cm程度で、当時はポイントガードというポジションでプレイしていた。いろいろなポジションの選手に対応できるディフェンスや高確率の3ポイントシュートは、さまざまなポジションを経験してきたからと言える
今では、身長2mを超える渡邊選手からは全く想像できない愛らしい幼少期
小学校の入学時
中学校入学時の身長は160cm程度で、当時はポイントガードというポジションでプレイしていた。いろいろなポジションの選手に対応できるディフェンスや高確率の3ポイントシュートは、さまざまなポジションを経験してきたからと言える
ジョージ・ワシントン大学4年生時のホーム最終戦に駆けつけたご両親とともに (ホームコートのスミスセンター前にて)
大学時代、現地の学生間でも渡邊選手の人気は高く、観客席に応援ボードも見受けられる。チームへの貢献でファンの心を掴んできた
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長井 大学卒業後は惜しくもドラフトにかかりませんでしたが、焦りはなかったですか。

渡邊 夢であったドラフトからは漏れてしまいましたが、その時点でも焦りは全くありませんでした。「その後、NBAを目指す若手選手が出場するサマーリーグの大会で活躍すれば、契約のチャンスはあるはずだ」と信じていましたから。実際に、サマーリーグ後にメンフィス・グリズリーズと2ウェイ契約※を結ぶことができました。

長井 そして昨シーズン、日本人として田臥勇太選手以来、史上2人目のNBAプレーヤーとしてデビューされました。このときの率直な気持ちは。

渡邊 憧れていたスーパースターたちと対戦できたときには、やはりうれしかったですね。中でもミルウォーキー・バックスのヤニス・アデトクンボ選手の技術や身体能力の高さには驚きました。とはいえ、今シーズンも過酷な戦いは続いていますし、とにかく与えられたチャンスにがむしゃらに取り組んでいきたいと思っています。具体的には得点力をあげながら、持ち味であるディフェンスなど数字に残らない部分も大切にしたいと思っています。

長井 アメリカで、ご自身が変化したことはありますか。

渡邊 一番はコミュニケーションの取り方でしょうか。アメリカ人はとても社交的で、彼らと生活を共にする上では自分もオープンマインドにならないといけないと思いました。僕はどちらかといえば人見知りだったのですが、ちゃんと自分の意思を伝えるように心掛けているので、かなり性格は変わったのではないかと思います。

長井 バスケットボール一筋の渡邊選手ですが、スポーツによって得られたものはなんでしょうか。

渡邊 バスケットボールはチームスポーツですから、コミュニケーションの大切さ、協調性の大切さはこの競技によって教えられました。また、スポーツ全般を通して言えるのは、目標を掲げて、それに向かって努力をすることで自己成長を得られるということ。それこそがスポーツの醍醐味であると思っています。

長井 今年、2020年は東京でオリンピックが開催されます。そこにかける想いをお聞かせください。

渡邊 ワールドカップでは、日本の皆さんの期待に応えられなかったので、東京オリンピックでは必ず雪辱を果たしたいと思っています。アメリカで一回り成長した姿を、両親やこれまでお世話になった指導者の皆さん、かつて一緒にプレーした仲間たち、そして四国の皆さんにお見せしたいと思っています。

※NBA各チームの傘下チーム(Gリーグ)に所属しながら、1シーズン中で最大45日間NBAチームに所属することができる契約。

自分より大きな選手に囲まれながらも、果敢にゴールを攻める渡邊選手(写真提供:ゲッティイメージズ)
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長井 渡邊選手とお話ししていると、図らずも、私たちが取り組んでいることとバスケットボールとの共通点を強く感じました。
 バスケットボールはコートにいる5人の選手が、コーチの作戦のもと、攻守に機能的に動かないとゲームをうまく運べません。また個人の選手目線では、渡邊選手のように、シュートを得意とする選手が、ディフェンスの技術も磨くと、より優位な試合運びにつながりますよね。
 「攻め」と「守り」、これまで培ってきたことを大切にしながら、新しいことにも積極的に挑戦することが必要だと、改めて実感しました。
 これを当社に置き換えますと、現在は、お客さまが、どこからでも電気を買える「電力自由化」の時代です。また今年4月からは、送配電部門が分社するなど、電気事業は大変革期を迎えています。こうした厳しい時代ではありますが、私たちは、これまで続けてきた電気の安定供給を果たしたうえで、新たな事業分野の開拓にも全力で挑戦していきたいと思います。

渡邊 「新たな事業分野」とは、具体的にどんなことでしょうか。

長井 一例をあげますと、農業への参入があります。老舗高級果実店・銀座千疋(せんびき)屋と連携して立ち上げた「あぐりぼん株式会社」では、「地元の人たちと一緒においしいイチゴを生産すること」で、地域活性化を目指しています。他にも、暮らしにおけるあらゆる困りごとを解決する生活サポート事業「ベンリーよんでん」などを通じて、これまで以上にお客さまに寄り添いながら、さらなる成長を遂げていきたいと考えています。

「ベンリーよんでん」では、エアコンクリーニングや庭の手入れなど、生活での困りごとを解決するサービスを行っている(高松市・高知市で事業展開)
「あぐりぼん」では、地元の人たちと一緒になって高級イチゴ「女峰」を生産することで、地域産業を盛り上げていく(香川県三木町)

渡邊 そうした挑戦を続けていく上で、長井社長が大切にされていることは何でしょうか。

長井 私個人としては、しっかりと聞く耳を持つことです。さまざまな立場から出される意見を聞く機会を設けて、その上でディスカッションを行い、より良き方向を導き出していきたいと考えています。
 また企業としては、四国の良さを受け継ぎ、生かしていくことも大切な使命であると考えています。私も仕事で四国各地で暮らした経験があり、四国遍路など、時間を見つけては、妻と一緒にあちらこちらに出かけています。そうしたときに感じるのは、自然も、歴史も、そしてそこに住む人も、四国は本当に素晴らしい場所だということ。この四国の良さを広く発信したいと、現在はJR四国と日本郵便と当社の3社が連携して観光事業の活性化などにも取り組んでいます。
 今、四国は外国人旅行者が非常に増えており、海外の方から見た四国の魅力の掘り起こしも課題となっています。海外で活躍している渡邊選手の意見も、機会がありましたら是非お聞かせください。

渡邊 そうですね。僕は香川県民ですから、うどんが大好きで、アメリカでも「うどんが食べたい」と思うことが多いんです。機会があれば、チームメイトに讃岐うどんを食べさせてみたい。また、「アメリカ人に瀬戸内海の美しさも知ってもらいたいなぁ」と思っています。でも写真を見せたら、「これは川なのか」と言われてしまいましたが…(笑)。穏やかな海に島々が浮かぶ景色の素晴らしさなど、伝えていけたら最高ですね。

長井 よろしくお願いします。今日、渡邊選手とお話しして、立場は違いますが、同じ「挑戦者」として、多くの刺激を受けました。ありがとうございました。
 今後のご活躍を心からお祈りしています。