トロール漁船の基地として知られる港町・八幡浜市は、明治時代に「伊予の大阪」と呼ばれるほど栄えた商業都市であった。明治30年に創業した宮川菓子舗には、当時から作り続けているお菓子がある。小麦粉の薄皮でこし餡を包んで蒸した「うすかわまんじゅう」だ。初代・宮川照太郎は宇和島市で修業をした後、八幡浜市で開業、以降代々その製法を受け継いできた。現在は五代目・宮川知也(ともや)さんが伝統の味を守り続けている。知也さんは製菓専門学校を卒業後、大阪で10年間洋菓子職人として働いた。平成16年に、30歳で帰郷したとき、まず教えられたのが「うすかわまんじゅう」の餡作りだ。当時、四代目の父・憲三(けんぞう)さんは経営者として飛び回っており、主に指南役となったのは祖父の久治(ひさはる)さん。火加減の調整や火止めのタイミングなどを知也さんに伝授した。
久治さんは、和菓子職人として働き始めて間も無く第二次世界大戦で海軍に入隊。大好きなお菓子作りから離れざるを得なかった。幸いなことに九死に一生を得て帰郷することができたという。「そんな辛い体験があったからこそ、平和にお菓子を作れる幸せを感じ、人を笑顔にできることに喜びを見出していたのでしょうね」と知也さん。久治さんは、戦後の食料不足で材料の調達に苦労したことも知也さんに話してくれた。特に記憶に残っているのは昭和27年頃、材料の小豆が高騰したときの話。「ずっと使ってきた北海道十勝産小豆が『赤いダイヤ』と呼ばれるほどの高値になったそうです」と知也さん。しかし、「うすかわまんじゅう」の値段は据え置きにしたので、売れば売るほど赤字になる状況だったが、久治さんは頑として譲らず、この素材にこだわり続けた。