「伊丹十三記念館」は、伊丹十三の妻で女優の宮本信子さんが館長、伊丹夫妻の盟友で、松山市に本社を置く株式会社一六(一六本舗)の会長である玉置泰(たまおきやすし)さんが館長代行を務めている。玉置さんが初めて伊丹に会ったのは1978年(昭和53)9月、伊丹の父・万作の三十三回忌法要が松山で行われたときだ。その少し前、玉置さんは伊丹に一六タルトのCM出演をオファーしており、そろそろ具体的な話を…と思っていた。すると、当時のマネージャーから「法事を手伝ってほしい」という電話が入ったのだ。「数日間、運転手として、伊丹さん一家に同行しました」と玉置さんは振り返る。
しばらくして、伊丹から撮影日の連絡があった。第一線で活躍する制作スタッフも伊丹が手配し、神奈川県湯河原の伊丹邸で撮影が行われた。「もんたかや(帰ってきたか)」と伊丹が松山弁でカメラに語りかけるCMは、1979年(昭和54)正月から愛媛県内で放映を開始。伊丹の台詞はたちまち流行語になり、1990年(平成2)までいろいろなパターンが制作された。
最初の出会い以降、講演などで松山に来る機会が増えた伊丹夫妻と玉置さんの親交は深まっていく。そんなある日、伊丹は「僕が映画をつくるときは、一緒につくりましょう」と玉置さんに切り出す。伊丹はかねてから「宮本信子という役者を主演女優にした作品を生み出したい」と考えており、一方の宮本さんは「万作の息子である伊丹さんに映画を撮ってほしい」という思いを抱いていた。映画づくりは、伊丹夫妻の夢だったのだ。
1983年(昭和58)9月、宮本さんの父が急逝。葬儀を主宰した伊丹は、「これは映画になる」と直感し、年末年始に脚本を書き上げる。玉置さんは、プロデューサーとして映画製作を支えることになった。
湯河原の家で撮影された映画『お葬式』は、1984年(昭和59)に公開された。タイトルがタイトルだけに、当初、映画配給会社から敬遠されたが、蓋を開けてみれば大ヒット。その年の映画賞を総なめにした。その後、『タンポポ』や『マルサの女』など次々と作品を生み出し、伊丹十三は日本を代表する映画監督となった。だが、10作目の『マルタイの女』が公開された3カ月後の1997年(平成9)12月、突然、伊丹の訃報が届いた。