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「記念館」で知る 伊丹十三(いたみじゅうぞう)の世界 「記念館」で知る 伊丹十三(いたみじゅうぞう)の世界

左/直筆の原稿・原画、愛用品が並ぶ展示室。宮本館長のメッセージや映画の特報、テレビCMなどの映像も人気
右/伊丹映画10作品の絵コンテや台本を展示した「常設展示十三・映画監督」

映画『タンポポ』や『マルサの女』など、独自の世界観による脚本監督作品で知られる伊丹十三は、愛媛県松山市と深い縁がある。市内には彼の業績や人柄を伝える「伊丹十三記念館」があり、開館から14年経った今も、多くのファンが足を運んでいる。

この記念館の魅力は、幼少期から晩年まで、多彩な活動とその背景を理解できること。「訪れる度に新たな発見がある」と、リピート訪問する人もいる。近年は、生前の伊丹の活躍を知らない若い世代が映画やエッセイをきっかけに興味を持って来館することもある。

そこで記念館の展示物や伊丹と親交の深かった人の視点を通して、伊丹十三の魅力を探っていく。

伊丹十三記念館の外観や展示室入り口、ミュージアムカフェの様子
左上/外観はシンプル。黒い焼杉などを用いたスタイリッシュな建物だ
右/展示室入り口では、伊丹十三の笑顔のポートレートが迎えてくれる
左下/伊丹映画のサウンドトラックが流れるミュージアムカフェ。中庭の桂の木を眺められる気持ちの良いスペースだ
伊丹十三と猫
©伊丹プロダクション

伊丹十三

映画監督・脚本家で愛媛県松山市出身の伊丹万作(まんさく)の長男として1933年(昭和8)京都市に生まれる。本名・池内義弘(通称・岳彦)。万作の死後、1950年(昭和25)に松山市に移り住み、愛媛県立松山東高等学校を経て松山南高等学校を卒業。映画編集、商業デザイナーを経験したのち26歳で俳優デビュー。エッセイやドキュメンタリー、テレビCMなどの分野でも活躍。1984年(昭和59)に監督第1作『お葬式』を発表しキネマ旬報ベスト・テン第1位など多数受賞。以降、1997年(平成9)までに10本の脚本監督作品を発表し、多くの観客の支持を集めた。同年12月没、享年64。
CM出演が縁となり大ヒット映画の製作へ

「伊丹十三記念館」は、伊丹十三の妻で女優の宮本信子さんが館長、伊丹夫妻の盟友で、松山市に本社を置く株式会社一六(一六本舗)の会長である玉置泰(たまおきやすし)さんが館長代行を務めている。玉置さんが初めて伊丹に会ったのは1978年(昭和53)9月、伊丹の父・万作の三十三回忌法要が松山で行われたときだ。その少し前、玉置さんは伊丹に一六タルトのCM出演をオファーしており、そろそろ具体的な話を…と思っていた。すると、当時のマネージャーから「法事を手伝ってほしい」という電話が入ったのだ。「数日間、運転手として、伊丹さん一家に同行しました」と玉置さんは振り返る。

しばらくして、伊丹から撮影日の連絡があった。第一線で活躍する制作スタッフも伊丹が手配し、神奈川県湯河原の伊丹邸で撮影が行われた。「もんたかや(帰ってきたか)」と伊丹が松山弁でカメラに語りかけるCMは、1979年(昭和54)正月から愛媛県内で放映を開始。伊丹の台詞はたちまち流行語になり、1990年(平成2)までいろいろなパターンが制作された。

最初の出会い以降、講演などで松山に来る機会が増えた伊丹夫妻と玉置さんの親交は深まっていく。そんなある日、伊丹は「僕が映画をつくるときは、一緒につくりましょう」と玉置さんに切り出す。伊丹はかねてから「宮本信子という役者を主演女優にした作品を生み出したい」と考えており、一方の宮本さんは「万作の息子である伊丹さんに映画を撮ってほしい」という思いを抱いていた。映画づくりは、伊丹夫妻の夢だったのだ。

1983年(昭和58)9月、宮本さんの父が急逝。葬儀を主宰した伊丹は、「これは映画になる」と直感し、年末年始に脚本を書き上げる。玉置さんは、プロデューサーとして映画製作を支えることになった。

湯河原の家で撮影された映画『お葬式』は、1984年(昭和59)に公開された。タイトルがタイトルだけに、当初、映画配給会社から敬遠されたが、蓋を開けてみれば大ヒット。その年の映画賞を総なめにした。その後、『タンポポ』や『マルサの女』など次々と作品を生み出し、伊丹十三は日本を代表する映画監督となった。だが、10作目の『マルタイの女』が公開された3カ月後の1997年(平成9)12月、突然、伊丹の訃報が届いた。

ポストカード、玉置さん、収蔵庫など
左/映画のポスターや伊丹自筆のイラストなどで構成されるポストカード。ミュージアムショップやネットにて販売。全23枚セットは1,980円(税込)
右上/公私ともに親交が深く、プロデューサーとして映画製作を支え続けた玉置さん
右下/収蔵庫には伊丹の洋服や時計、映画に使われた衣装も保管されている
中村家で保管されていた伊丹が描いた1枚の絵

「あの時の喪失感は言葉にはできないほどでした」。第3作以降、伊丹プロダクションの社長を兼任していた玉置さんは、深い哀しみのなか、オフィスの整理に追われた。最後の愛車ベントレーなどを伊丹の家族と相談の上、松山へと移送した。「いつの日か、伊丹さんの願いを叶える時までこれらを預かろうと決めたのです」と玉置さん。その願いとは、「伊丹万作の業績を何らかの形で残したい」というもの。伊丹の父・万作は、1900年(明治33)に松山市で生まれ、『國士無双(こくしむそう)』や『赤西蠣太(あかにしかきた)』などの作品を残した知性派映画監督だ。玉置さんはその思いを新たな形で受け継いで「伊丹十三自身の記念館を」との構想を胸に抱くようになった。

伊丹が亡くなって丸5年の2002年(平成14)12月、伊丹夫妻と親交のあった人々が集う「宮本信子 感謝の会」が開催された。気持ちが少しずつ前を向き始めた翌年、玉置さんは町立久万美術館(久万高原町)で開催された「重松鶴之助 よもだの想像力」展へと足を運ぶ。重松は松山市生まれの画家で、旧制松山中学の同窓である万作や中村草田男(くさたお)と親しく付き合っていた。玉置さんは、美術館で彼らが青年時代に立ち上げた手づくりの回覧雑誌『朱欒(しゅらん)』を目にする。後日、これを見るために、宮本さんと玉置さんは、草田男の三女の弓子さん宅を訪問することになった。そこでふたりが目にしたのは、1枚の絵。伊丹が小学校1年生の時に描いた『野菜の絵』だ。幼い子が描いたとは思えない見事な描きぶりを万作が自慢し、感心した草田男が譲り受けたという。この『野菜の絵』は、宮本さんへと贈られた。「実は中村家へと向かう道すがら、宮本さんから『玉置さん、記念館をつくるよ!』と言われたばかり。実に思い出深い訪問となりました」と玉置さん。この日を契機に、記念館設立計画が進み始めた。

ベントレー・コンチネンタル
最後の愛車であるベントレー「常設展示八・乗り物マニア」
YASHICAのカメラやテープレコーダー
取材に使用したカメラやテープレコーダー「常設展示九・テレビマン」
きゅうりやなすなどが描かれた絵
小学1年生が描いたとは思えない見事な出来栄えの『野菜の絵』
(伊丹十三記念館提供)
たばこを持つ伊丹万作
晩年は病に臥すことが多かったという伊丹万作。病床にありながら厳しくも深い愛情をわが子に注いだ(伊丹十三記念館提供)
「伊丹さんの家」を訪ねたような記念館

ベントレーなど松山で保管していた遺品に加えて、伊丹宅や事務所にあった品々から展示品を厳選し、2007年(平成19)5月15日、「伊丹十三記念館」が開館。オープン日は伊丹の誕生日でもあった。設立・運営に関わる費用は、「伊丹さんを入れた3人でやっていく記念館だ」という意思のもと、宮本さんが3分の2、玉置さんが3分の1を出資。伊丹の熱烈なファンである建築家・中村好文(よしふみ)さんは、「伊丹さんの家みたいにしてほしい」という宮本さんの希望を受け入れて、くつろぎの中にも遊び心のある空間をつくった。

常設展示室には、伊丹十三の名前にちなんで”十三”のコーナーが設けられ、伊丹の足跡を年代順に辿ることができる。少年時代を紹介する冒頭の「池内岳彦」コーナーには、あの『野菜の絵』が掛けられた。仕事人としての多才ぶりを伝えるのは、「商業デザイナー」や「俳優」、「エッセイスト」、「テレビマン」、「CM作家」などのコーナー。また、伊丹愛用の品を展示した「音楽愛好家」、「料理通」コーナーからは、凝り性な性格が垣間見える。「猫好き」コーナーには、伊丹エッセイにしばしば登場した飼い猫のデッサンがある。柔らかな筆致(ひっち)が微笑ましく、愛情豊かな人柄を感じさせる。

そしてこれらの展示は、13番目の「映画監督」へと繋がっていく。「若き日からのさまざまな取り組みが、最終的に映画へと昇華されたようだ」という感想を抱く来館者も多い。

伊丹が遺した資料は約8万点。そこから展示品を選ぶのは、大変な作業だった。こうした膨大な資料を活かすために、本来なら来館者が見ることはない収蔵庫も”展示風”に設計され、伊丹の仕事や暮らしぶりを感じることができる。中でも湯河原の家のダイニングルームを再現した一画は、『お葬式』やテレビCMのロケ撮影のエピソードも豊富で、映画ファン以外でも楽しめる。収蔵庫は、学芸員の解説付きで年に1回、限定公開を行っている。

常時展示六や収蔵庫の2階の様子、一六タルトCMの原稿
左/手回しハンドルや引き出しなどを使い、楽しい仕掛けでイラストを鑑賞「常設展示六・イラストレーター」
右上/膨大な資料を展示風に収めた収蔵庫の2階部分。年1回開催される収蔵庫ツアーにて見学可能(事前募集・抽選制)
右下/古い松山弁が印象的な一六タルトCMの伊丹直筆の原稿。「三十三回忌での万作の友人たちの会話に触発されたのでは」と玉置さん
あちらこちらで感じる伊丹十三の息づかい

展示の余韻にひたりたい人に人気なのは、中庭を見渡すことができるカフェ・タンポポ。伊丹が愛飲した飲み物などを提供しており、壁には映画『タンポポ』のポスターのために伊丹が描いた登場人物のデッサンが掛けられている。BGMは、伊丹映画のサウンドトラック。伊丹映画の世界にひたれるスペースとなっている。

「この記念館の魅力は、ただ展示を見るだけではありません。カフェや中庭も含めて、そのあちらこちらで伊丹十三を感じてほしいのです」と玉置さん。中庭には、2本の幹が根元でひとつになっている桂の木が、伊丹夫妻を象徴するかのようにたたずんでいる。

建物の外、アプローチの脇にある厩(うまや)のような建物、その中には、最後の愛車であるベントレーが置かれている。伊丹がひょっこりと降りてきそうな気がするほど、伊丹十三を身近に感じられる場所、それが「伊丹十三記念館」なのだ。

中庭の様子
中庭には伊丹夫妻を思わせる桂の木。宮本館長が好きなタンポポも地植えされている
饅頭とティー
入館者専用のカフェ・タンポポで提供している「十三饅頭」は、小ぶりで上品な味わい。土産としての購入も可能
笑顔の中野靖子さん
学芸員の中野靖子さん。ユニフォームは宮本さんがデザインし、館長は黒、スタッフは茶色
ミュージアムショップの様子
ミュージアムショップでは、伊丹のエッセイ本やオリジナルグッズを扱っている
宮本信子さん

special interview 宮本信子さん

ふらりと気軽に立ち寄って「伊丹さん」を感じてほしい

中村弓子さんのお宅で伊丹さんが描いた『野菜の絵』、ピカッと光っているナスを見た瞬間、いろんな思いがあふれてきました。我が子を自慢した万作、義父を「恩友(※)」と呼んだ中村草田男さん、「伊丹万作の坊ちゃんの絵」と大切に保管してくださった中村家の人々。「この絵を記念館のシンボルとしたい!」と心が決まりました。設計の中村好文さんは「伊丹さんのお家みたいにしたい」という私の意図をしっかりくみ取ってくださいました。記念館と聞けば、なんだか堅苦しいイメージがあるでしょう? でも伊丹さんだったら「まあまあ、家に遊びにきてよ」って言うと思ったんです。そんな肩のこらない、気軽に立ち寄れる大満足の建物です。ただ「森の中に建てて」という願いだけは、玉置さんに却下されました(笑)。でも中庭のベンチに座っていると森の中にたたずんでいるかのような気分にひたれます。大好きなタンポポも植えていただいて。お気に入りの場所のひとつです。

館内には「猫好き」の展示がありますが、伊丹さんは子どもや赤ちゃんも大好きでした。「イラストレーター」の展示でお子さんがハンドルを回したり、引き出しを開けたりしたら、「ほらほら、面白いだろう?」って言って、目を細めているような気がします。伊丹さんのお仕事についてはもちろんですが、そんな人となりについて感じていただける場所として、これからも愛されることを願っています。世の中が落ち着いたら、私もすぐにでも記念館へと足を運び、受付でお客さまをお迎えしたいなと思う日々です。

※おんゆう/中村草田男の造語、恩のある友人

お問い合わせ

伊丹十三記念館
住所 愛媛県松山市東石井1-6-10
電話番号 089-969-1313
開館時間 10:00〜18:00(入館は〜17:30まで)
休館日 火曜(祝日の場合は翌日)
入館料 大人800円、高・大学生500円、中学生以下無料
駐車場 有り
URL https://itami-kinenkan.jp/