かつて佐田岬半島には、海岸沿いの入江に50以上の集落が点在していた。集落間は急峻な山に阻まれているため陸路での移動が困難であることから、人々の移動手段には小さな船が使われていた。「船は漁にも使われましたが、今でいうマイカーのように使うことも多かったようです。そのため、海岸沿いにはたくさんの船蔵が造られていました」と話すのは、伊方町唯一の博物館「町見(まちみ)郷土館」の学芸員である髙嶋賢二さん。
船に頼る生活は、八幡浜市から伊方町三崎までの県道(後の国道197号)が開通する1958年(昭和33)まで続いた。ただし、この県道は山腹に沿った狭く曲がりくねった道。「運転がしにくいことから、『行くな(197)線』と呼ぶ人もいたそうですよ」と髙嶋さん。そうした状況を打開すべく、10年の歳月をかけて、1987年(昭和62)に半島の付け根から先端までの稜線を走る新しい国道が開通した。この道は見晴らしが良く、快適なドライブを楽しめることから「佐田岬メロディーライン」の愛称が付けられた。開通をきっかけに、半島に暮らす人々の利便性も大きく向上。多くの観光客も足を運ぶようになったが、今も一部の地域に残っている船蔵が、かつての暮らしを物語っている。