久米通賢の史料は、香川県内の複数の博物館で収蔵している。なかでも坂出市の「鎌田共済会郷土博物館」は、国の重要文化財に指定されている史料1,061点を収蔵。博物館は1925年(大正14)に、実業家・鎌田勝太郎が開いた。社会教育事業にも積極的に取り組んでいた鎌田は、「醤油は塩なくしては作れない。その塩作りに貢献した通賢を顕彰したい」と久米家をはじめとする関係者の協力を得て通賢の史料を蒐集(しゅうしゅう)した。ここでは「星眼鏡」や「地平儀」、「坂出塩田新開図」などを通して通賢の生涯に触れられる。
「讃岐のエジソン」とも称される久米通賢(※1)は、天文学者にして測量技術者、精糖技術や塩田の開発者、そしてさまざまな機器の発明家と、多彩な顔をもつ人物。しかもその業績の多くが、地域の発展に寄与している。
久米通賢の足跡は、今も香川県内のあちらこちらに残されており、坂出市の「鎌田共済会郷土博物館」が所蔵する史料1,061点は、2014年(平成26)に国の重要文化財に指定された。研究者たちは、その業績を深く検証しようとしている。
そこで保存されている史料や研究者の話を通して、久米通賢の生涯に迫っていく。
※1/名前の読み方は「みちかた」であったと推測されるが、現在は「つうけん」という読みが一般化している。
1780年(安永9)
讃岐国大内郡馬宿村(現在の東かがわ市)に生まれる。
1798年(寛政10) 18歳
大阪で天文学者の間重富(はざましげとみ)の門下生となり、天文暦学を学ぶ。
1802年(享和2) 22歳
父親の死去にともない帰郷し、家督を相続。この年に藩に取り立てられる。
1806年(文化3) 26歳
高松藩の測量方として領内の沿岸の測量を開始。
1807年(文化4) 27歳
領内の島嶼部(とうしょぶ)や讃岐東部の沿岸測量を行う。あわせて天体観測を行い、彗星(すいせい)の記録を間重富へ報告。
1808年(文化5) 28歳
日本地図を作成していた伊能忠敬が、讃岐を訪れた際に協力する。通賢は日食観測、高松以東の測量を行う。
1812年(文化9) 32歳
天体観測機器・渾天儀(こんてんぎ)や天球儀、地球儀を製作。
1815年(文化12) 35歳
火縄式銃の火打ち石式への改良に成功。
1817年(文化14) 37歳
水を汲み上げるための機器・自然水(じねんすい)を開発。
1821年(文政4) 41歳
地平儀を製作し、藩に献上。
1824年(文政7) 44歳
高松藩九代藩主 松平頼恕(よりひろ)が藩の財政再建への協力を依頼。これに応えて坂出の塩田開発を進言。
1826年(文政9) 46歳
塩田開発の普請奉行に就き、3年間を費やして成功させる。
1827年(文政10) 47歳
別子銅山坑道内部の測量を行う。
1836年(天保7) 56歳
藩の職を辞し、生家へと帰る。その後も、著述や研究に邁進する。
1841年(天保12) 61歳
馬宿村で死去。
江戸時代後期、讃岐からは二人の偉大な発明家が生まれた。一人はエレキテルを復元した平賀源内(ひらがげんない)。もう一人が源内の没年の翌年に生まれた久米通賢だ。両者は、多分野で業績を残したことが共通点となっている。
ただし源内が後年、活動の拠点を江戸に移したのに対して、通賢は生涯のほとんどを讃岐で過ごした。地元に腰をすえて研究や事業に取り組んでいたため通賢の知名度は、源内に比べると高くはない。だが、研究者の間では、彼の業績は源内に決して引けを取らないと考えられている。
「私が通賢に着目したのは、今から20年前。香川県で生まれた、日本の天文学史に名を残した人物として興味を持ちました」と話すのは、香川大学教育学部の松村雅文教授。天文学を専門とする松村教授は自身の研究領域から通賢を探っていったが、研究を深めるにつれて通賢が多くの分野で業績を残していることに気付く。「通賢を知るためには、さまざまな分野の研究者の力が必要だ」と感じ、2004年(平成16)、文部科学省科学研究費補助金の採択を受けて、香川大学や徳島文理大学の教員、香川県歴史博物館の学芸員ら12人で調査チームを結成。「江戸のモノづくり」をテーマに、通賢に関する調査・研究を行った。
2年間をかけて成果をまとめ上げたチームは、通賢をもっと多くの人に知ってほしい、そのためにも研究をさらに深めたいと考え、「久米通賢研究会」として活動を継続。現在もそれぞれの知見を生かしながら、研究に取り組んでいる。
「通賢の原点は、天文学にあると私は考えています」という松村教授。通賢は18歳で大阪へ行き、天文学者の間重富に師事。重富は、西洋の天文学も取り入れていたことから、通賢は当時の最先端の天文学を学んだと考えられている。
当時の天文学は、暦を作ることを目的とした学問。通賢も師匠のもとで天文暦学を学び、帰郷後は彗星や日食・月食の観測や計算、観測機器の改良や製作にも取り組んだ。「星眼鏡(ほしめがね)」と名付けられた自作の天体望遠鏡もその一つ。天頂付近が観察しやすいように架台が付けられており、独自の工夫がなされたものであった。
通賢の生きた時代には、大彗星が6度出現したが、うち3度について通賢が観測を行ったことが分かっている。「なかでも1811年(文化8)の観測データは明瞭に残っています。その精度は非常に高く、江戸や大阪の天文学者と比較しても遜色がありません」と松村教授。当時、江戸や大阪では、多くの天文学者がしのぎを削っていた。遠く離れた讃岐の地にいながらも、研究への強い熱意をもち続けたことがうかがえる。
天文学で身に付けた緻密な観察眼や計算力、そしてモノ作りの能力は、通賢が26歳より本格的に取り組み始めた精密測量と地図製作へと生かされる。帰郷後、高松藩の測量方に取り立てられた通賢は、阿波との国境にあたる通念島(引田沖の離島)から海岸線に沿って西の丸亀藩との国境にあたる土器川まで進み、そこから内陸部の道を東に向かい、阿波との国境に位置する大坂峠(徳島県鳴門市)までの測量を約1カ月で成し得た。
測量に際しては、羅針盤による方位の記録と間縄(けんなわ)による距離の測定を行う「導線法」という手法が用いられた。ただしこの手法には欠点があった。小さな誤差が積み重なって、大きな狂いを生んでしまう可能性が高いのだ。通賢はそれを解消する「交会法(こうかいほう)」を併用。伊能忠敬の四国測量の2年前に領内の測量を完了し、高松藩全図を作り上げたと伝えられていたが、場所ごとの測量の記録は残されていたものの、実際の高松藩全図は長く行方不明になっていた。ところが、2002年(平成14)、「鎌田醤油」の旧店舗の倉庫で全図の下絵が発見された。
通賢の測量記録を調べると、バーニアを用いたことが分かる。当時の日本において、バーニアを用いたのは通賢のみであり、通賢の測量精度は、伊能忠敬の測量精度よりも優れていたと評されている。
天文学から始まり、測量・地図製作へとつながった通賢の取り組みは、坂出塩田の開発という大事業へと結びついた。1824年(文政7)、通賢は悪化していた高松藩の財政再建策として、塩田の開発を進言する。「20代の時に測量で領内の沿岸を巡っていた通賢は、地形などから坂出が塩田に適していると考えたのでしょう」と話すのは、「鎌田共済会郷土博物館」の学芸員・宮武尚美さん。
史料には、海水を取り込む取水口、雨水の排水口の設計図が多い。当時、他の塩田では取水口と排水口を兼ねることが多かったが、雨が降った後はできるだけ早く排水し、すぐに製塩作業ができるように工夫したと考えられている。
また、塩田開発でもっとも難工事と言われる汐留(しおどめ)(築堤工事で最後に残った部分を一気に塞ぐ)に先立って、通賢は「もし失敗したなら命で償う」という主旨の言葉を残していた。汐留は、潮位が下がる日・時間に一気呵成に行う必要があり、万が一、完成しないと潮が入り込み、既成の堤防が損壊すれば、それまでの努力が水泡に帰してしまう。通賢は不退転の覚悟をもって、汐留を見守ったと思われる。
「通賢の素晴らしいところは、設計や土木工事で辣腕を振るうだけではなく、塩田の経営を成功させるために他の産地の価格を調査し、生産量の見積もりなど事前の準備も行っていたこと」と宮武さん。まさに深謀遠慮の人といえよう。
1829年(文政12)、藩主・松平頼恕(よりひろ)は汐留工事を成功させたことを大いに讃えて、旧地と墾田地(埋立地)の境に「坂出墾田之碑」を建立した。今もこの碑は菅原神社(京町)の境内にある。また聖通寺(しょうつうじ)山中腹、常盤公園の塩竃(しおがま)神社境内には、坂出塩田開発の普請奉行の姿をした久米通賢の銅像が佇んでいる。その視線の先には、坂出墾田地が広がっている。
通賢は名声や報酬のためではなく、「人々の暮らしを豊かにしたい」という思いを原動力に、特産品の砂糖製造の改良策にも取り組んだ。また伊予(愛媛県)の別子銅山の水抜き工事、遠江(とおとうみ)(静岡県)の港湾改修など、遠方からも依頼があれば駆けつけたと記録されている。鉄砲や武器の改良・製造も業績の1つとなっているが、海外からの脅威にさらされていた当時、「人々の命を守りたい」との思いがあったのであろう。
久米通賢の61年の生涯は、郷土の発展と人々の安らかな暮らしのために捧げられたといっても過言ではない。
URL | http://www.ed.kagawa-u.ac.jp/~matsu/kume/ |
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久米通賢の史料は、香川県内の複数の博物館で収蔵している。なかでも坂出市の「鎌田共済会郷土博物館」は、国の重要文化財に指定されている史料1,061点を収蔵。博物館は1925年(大正14)に、実業家・鎌田勝太郎が開いた。社会教育事業にも積極的に取り組んでいた鎌田は、「醤油は塩なくしては作れない。その塩作りに貢献した通賢を顕彰したい」と久米家をはじめとする関係者の協力を得て通賢の史料を蒐集(しゅうしゅう)した。ここでは「星眼鏡」や「地平儀」、「坂出塩田新開図」などを通して通賢の生涯に触れられる。
住所 |
香川県坂出市本町1-1-24 |
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電話番号 | 0877-46-2275 |
開館時間 | 9:30〜16:30(入館は〜16:00) |
休館日 | 月曜日、祝日、8月13日〜15日、12月29日〜1月4日 |
入館料 | 無料 |
駐車場 | 有り |
URL | https://kamahaku.jp |