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松山の夜は昭和のハイボールでサントリーバー露口ものがたり(愛媛県松山市) 松山の夜は昭和のハイボールでサントリーバー露口ものがたり(愛媛県松山市)

北に険しい四国山地が控え、南に雄大な太平洋が広がる高知県は、独自性のある食文化や生活文化が根付いている。例えば県民食ともいえるカツオのたたき、宴席に欠かせない皿鉢(さわち)料理、菓子の堅干(けんぴ)、土佐の日曜市を代表とする街路市などが好例だ。これらは、今や観光客を惹きつける観光資源にもなっている。

こうした文化が生まれた背景には、江戸時代の殿様や武士の関与などがあったとされている。残された歴史的な史料には、殿様が口にした料理、藩が制定した決まりなどに「カツオ」や「市(いち)」の記述が残っている。そこでそれらの史料をひもとき、今も愛される「高知名物」の歴史を訪ねた。

01/現代の皿鉢料理の一例。直径40cm近くもある大皿に鰻やウツボ、イタドリなど高知の食の名物が盛り合わせられており、皆で取り分けて味わう★
02/素朴な甘みと歯ごたえが特徴の銘菓・堅干。歴代藩主も愛食したと伝えられている
03/江戸時代以前に築かれた現存天守12城の一つに数えられている高知城。本丸の建物が完全な形で残っている全国唯一の城でもある
04/高知城のお膝元の追手筋で開催されている「土佐の日曜市」。片側2車線の路上で行われる市内最大の街路市だ
05/カツオのたたきは、塩やタレをかけてカツオの身をたたき、味を馴染ませたことからその名がつけられた★
★調理協力/村の集会所(高知市)
高知の県民食カツオのたたきの由来

高知を代表する食材としてまず思い浮かぶのはカツオ。中でも表面を火で炙り、冷水でしめてポン酢や薬味で味わうカツオのたたきを「高知発祥である」と考える人は多い。その理由として、「土佐藩主が食あたりを案じてカツオの生食を禁じた際、カツオ好きの人々は表面を焼いて焼き魚と偽った」という話がまことしやかに伝えられているためだ。

「この説を裏付ける証拠は、今のところ見つかっていません」と話すのは、高知県立高知城歴史博物館の学芸員・藤田雅子さん。1690年(元禄3)、4代藩主山内豊昌(とよまさ)は、それまで藩が発布した法令を『元禄大定目(げんろくだいじょうもく)』にまとめた。以降、幕末まで新たな法令を追加して残しているが、そこにカツオの生食を禁じたという記述は一切出てこない。多くの人が信じている「殿様が禁じたから」という説は、裏付けのないものなのだ。

だからと言って「たたきは高知発祥ではない」とも言い難い。カツオの調理法の一つに「土佐造り」がある。これは炙った身を冷やさず、温かいまま食べるもので、県内では「焼き切り」とも呼ぶ。高知では「たたきの始まりは漁師が船上で食べていた賄(まかな)い」という説もあり、より少ない手順で調理する点でも説得力がある。

手前は塩で味わう塩たたき、奥は土佐酢で味わうたたき。地域により調味料や薬味を変えた味わい方が根付いている [調理協力/村の集会所(高知市)]
高知の近世の歴史について研究している藤田学芸員
カツオをモチーフにした江戸時代の工芸品

「カツオのたたき」の発祥には謎も残るが、高知県民が古くからカツオを愛食していたことがうかがえる絵画が残されている。江戸時代に描かれ、後に模写された『土佐年中行事図絵』がそれだ。「江戸時代の年中行事を1カ月毎に描写したこの絵に、天秤棒を担いでカツオを運ぶ魚屋の姿があります」と藤田さん。また、1799年(寛政11)に発刊された『日本山海名産図会』にも諸国の名産品とともに、「土刕鰹釣(としうかつをつり)」が描かれており、黒潮に揉まれながら1本釣りをする様子は現代の漁を彷彿とさせる。

加えてカツオの加工品も、江戸時代の高知の特産品であった。1650年(慶安3)、江戸に滞在中の2代藩主山内忠義(ただよし)は、「カツオのたたきが到着した」という手紙を高知に向けて書いている。ただし、この時のたたきは、カツオの身を血とともに漬け込んだ発酵食品であったようだ。ほかにも1813年(文化10)に江戸幕府の老中から届いた『老中奉書』は鰹節の献上に対する返礼。また名物番付である『諸国名物類聚(るいじゅう)』(江戸時代後期)には、「土佐 勝男武士」が堂々と東の大関(最高位)に輝いている。食品だけではなく、『尾戸焼(※1)松魚(※2)図野樽』、『鰹形皿』など、カツオをモチーフにした器も複数残されている。さまざまな形でカツオを愛する高知が、江戸時代から「カツオの国」であったことがよく分かる。

※1 尾戸焼…2代藩主山内忠義の時代に高知市内で発祥した焼物。土佐藩の御用窯から産した陶器
※2 松魚…古くからのカツオの表記の一つ
江戸時代の年中行事を描写した『土佐年中行事図絵』。原本は焼失したが、日本画家の下司凍月(げしとうげつ)の模写が残されている(高知県立図書館蔵)
大阪の酒造家・木村孔恭(きむらこうきょう)が著した『日本山海名産図会』。各地の名産の採取や生産の様子が図解されている(高知城歴史博物館蔵)
江戸詰の2代藩主山内忠義から「鰹のたたき」(※囲み部分)が到着したことを知らせた書状(高知城歴史博物館)
皿鉢料理と「おきゃく」も始まりは江戸時代

高知の宴席には、大きな皿に山海の美味を盛り付けた皿鉢料理が欠かせない。皆で料理を分け合うという風習は、収穫祭で神様への供物を神事の後に分け合う直会(なおらい)に端を発する。江戸時代初期に、磁器焼成の技術向上により、大皿が焼けるようになったことから、高知ではそれに料理を盛り付けるようになった。「当時の上流階級の宴席では、味よりも見た目を重視し、儀礼化した本膳料理(※3)による宴の後で、大皿料理を楽しんでいたようです」と藤田さん。

県内には江戸時代後期の能茶山(のうさやま)焼(※4)の見事な皿鉢が残されている。また藩の家臣であった森勘左衛門の1799年(寛政11)の日記には、酒宴献立として、皿鉢に盛り付けた鰆の作り身、鯖の寿司などのご馳走が記録されている。これを楽しく味わうことが「おきゃく」の始まりであるというのが定説だ。

ただし、皿鉢料理を楽しむ当時の風習は、武士や上流階級だけのものであった。「江戸時代は質実剛健を旨としており、贅沢品である皿鉢の売買や使用を農村部で禁止した藩令も残されています」と言う藤田さんの言葉どおり、皿鉢料理が庶民に浸透するのは明治時代以降。ただし大皿に生(さしみ)、組み物(煮物や焼き物)、寿司を盛り付けるというルールは、江戸時代に確立していたといわれている。

※3 本膳料理…武家のもてなし料理の形式。複数の膳に料理をのせて出す
※4 能茶山焼…尾戸焼の別名

『尾戸焼松魚図野樽』は、酒など液体の食品の保管に使用されたもの(個人蔵)
1863年(文久3)の『鰹形皿』は蓋付の珍品。内部に料理を盛り付けるようになっている(高知城歴史博物館蔵)
全国の特産品を番付形式で紹介・格付けした江戸時代後期の『諸国名物類聚』(高知市立高知市民図書館蔵)
『土佐年中行事図絵』より、初節句のお祝いの様子。親族で尾頭付きの鯛と皿鉢料理を囲んでいる(高知県立図書館蔵)
現在の本町2丁目に屋敷があった土佐藩の上級武士・森勘左衛門の日記には土佐藩の上級武士の日常が記録されている(高知県立図書館蔵)
繊細な染付けが施された江戸時代後期の『能茶山焼皿鉢』(個人蔵)
今も受け継がれている殿様が愛した菓子

高知名物の菓子として、サツマイモを揚げて砂糖を絡めた芋ケンピはよく知られている。「芋ケンピは小麦粉を使った干菓子の堅干から派生したもの。堅干は土佐藩とゆかりのあるお菓子です」と話すのは、西川屋(にしがわや)12代目の池田再平(さいへい)さん。西川屋は1601年(慶長6)に初代藩主山内一豊(かつとよ)が土佐に入国した時から御用商人として仕えてきた老舗。当初は主に素麺を藩に献上していたが、「殿様を喜ばせる新しい味わいを」と白髪素麺と麩(ふ)の製法をヒントに研究して生み出したのが堅干だ。小麦粉に砂糖と少量の卵を加えて練った生地を、細切りにして窯で焼き上げたもの。その名の通りにしっかりと歯ごたえのある堅さ、やがて広がる素朴な甘みに一豊公もいたく喜ばれ、以降、事あるごとに藩からの注文が入った。また西川屋赤岡旧本店がある香南市赤岡町は、参勤交代や遊覧の際には殿様の宿泊地でもあった。その際、出来たての菓子を献上したこともある。

「ご先祖様が商品を入れてお城に持参した箱、藩からの注文書などの史料がこうした歴史を物語っています」と説明するのは西川屋13代目の池田真浩さん。これらの史料は、西川屋だけではなく近世の食文化を探る上でも非常に貴重なものだ。

現在、コロナ禍により史料を保存・展示した赤岡旧本店は不定期営業となっているが、「江戸時代の面影を残す建物で、その頃と変わらない味を気軽に楽しんでもらえる日を迎えたい」と願う真浩さんだ。

サツマイモで作った芋ケンピは、その形が堅干に似ていることから名付けられたとか。西川屋でも手作業で蜜漬けする芋ケンピを製造している。それぞれの歯ごたえと味わいを食べ比べるのもおすすめだ。

西川屋のケンピは、江戸時代から変わらない味わい。初めて食べた人は、その堅さに驚く
暖簾を守り続ける池田再平さん(左)と息子の真浩さん(右)
ケンピの製造元・西川屋に残されている江戸時代に土佐藩に納めた素麺や菓子を記録した帳面
「藩主に納めるための『山の薯饅頭(いもまんじゅう)』の名称を大切にするように」と土佐藩の家臣から送られた書状
現在、製造している薯蕷(じょうよ)饅頭は、江戸時代の山の薯饅頭の復刻版。白いんげん豆の餡を大和芋の生地で包んだ上品な一品
土佐藩から庄屋の浜元太郎に対して、西川屋へ菓子の注文を命じた書状
江戸時代に土佐藩に菓子を納めていた箱。「御用」の文字が記されている
思い出に残る一夜は60周年を祝う晴れの舞台

日曜市などの土佐の街路市は300年以上の歴史をもつ。その根拠となっているのは、『元禄大定目』だ。1690年(元禄3)の時点で、藩令により市を開く日や場所を決めた記述がある。「江戸時代には、日切市(ひきりいち)として、市内各所で市が立っていました。明治になり、曜日の概念が定着して以降、現在の各曜市へと発展したのです」と藤田さん。

現代の街路市は日・火・木・金曜の週4日。最大規模の日曜市は高知城追手門から東に伸びる追手筋沿いの約1㎞に、300店ほどが出店。農産物や海産物を中心に、金物や衣料、工芸品まで多種多様な品々が並んでいる。市民の台所として愛されてきたが、近年は観光資源としても重要な役割を果たしている。2018年(平成30)から始まった「れんけいこうち日曜市出店事業」は、高知市以外の市町村が順番で地場産品の販売を行う。日曜市を活用し、各地域の魅力発信が行われているのだ。

高知の物産やお国言葉に触れられる日曜市をそぞろ歩き、高知城へと足を伸ばせば、江戸時代から続くこの地の魅力を体感できるに違いない。

日曜市では、土佐藩の家老であった野中兼山が、財政対策のために奨励した土佐打刃物を売る店も人気
街路市について記述された『元禄大定目』。史料の右ページ10行目に「市町定」の文字があり、どこでいつ街路市を開催して良いかについて記載されている(高知城歴史博物館蔵)
高知県立高知城歴史博物館
住所 高知県高知市追手筋2-7-5
電話番号 088-871-1600
開館時間 9:00〜18:00(日曜は8:00〜)※入館は閉館の30分前まで
休館日 12月26日〜31日
入館料 500円〜(展示内容により異なる)、高校生以下無料
URL https://www.kochi-johaku.jp
西川屋知寄町本店
住所 高知県高知市知寄町1-7-2
電話番号 088-882-1734
営業時間 9:00〜19:00
定休日 無休
URL https://www.nishigawaya.co.jp
備考 西川屋赤岡旧本店(西川屋おりじん)は当面の間、イベント時など不定期営業
土佐の日曜市
電話番号 088-823-9456(高知市産業政策課)
時間 6:00〜15:00頃
URL https://www.city.kochi.kochi.jp/site/gairoichi/
撮影のためマスクを外している場合があります