京阪神に近い鳴門市の撫養(むや)港は、古くから塩や藍、木材などの積み出し港として栄えた歴史を有する。帰路に運び込まれたさまざまな物資のなかに、河内木綿(かわちもめん)があった。これを利用して江戸時代中期から始まったのが、足袋の製造。なぜ足袋だったのかについて、「原料が手に入ったことに加えて、人手があったこと、鳴門市に四国霊場第1番札所霊山(りょうぜん)寺があることも関係していると聞いています」と説明してくれたのは、「美津菱(みつびし)足袋株式会社」(以下:美津菱足袋)の廣瀬雄一郎社長。
当時の鳴門市の主要産業は製塩。塩田で働く男性に対して、妻や娘らが内職として足袋を作り始めたという話が残されている。また、江戸時代から一般化した四国遍路は多くの人を四国に呼び込み、歩き始める前に足袋を求める人が多かった。つまり鳴門市には原料、作り手、購入者がそろっていたのだ。
当初、家内工業であった足袋製造だが、江戸時代後期から明治時代初期にかけて、問屋制家内工業へと進んでいく。さらに産地として飛躍する要因となったのは、ミシンや裁断機などの機械の導入。明治20年代頃から手回し式のミシンが導入され、製造数は一気に増えていく。それまで年間30万足ほどだった製造数は、1907年(明治40)頃には300万足以上になった。機械化とともに企業化も進み、新規参入も目立ち始めた。
製造数がピークを迎えるのは1935年(昭和10)頃。鳴門市では1,000万足以上が作られていた。だが、その後、戦時下の統制経済の影響により、製造数は大きく減る。戦後、製造業者らの努力により業界は復興を果たし、1953年(昭和28)頃には、ピーク時に近い製造数に戻すことができた。その喜びもつかの間、業界に大激震が走る。化学繊維が国内に導入され、ナイロン靴下の製造が始まったのだ。「同時に服装やライフスタイルの洋風化が進み、足袋の需要は激減しました」と廣瀬社長。これ以降、鳴門市では事業縮小や閉業が相次いだという。