宇和島市沖に広がる宇和海は日本トップクラスの真珠の生産地として知られている。その基礎を作ったのは、北宇和郡岩松村(現在の宇和島市)で生まれた小西左金吾(さきんご)だ。小西はこの海域に生息するアコヤ貝が、まれに天然真珠を持っていることに目を付け、1913年(大正2)から本格的に真珠養殖を開始。以降、複数の先人が養殖に取り組み、宇和海は真珠養殖場として全国に知られるようになった。
第2次世界大戦後は、真珠養殖の先駆地である三重県の大手養殖業者が、漁場を求めて愛媛県へとやってきた。宇和海の真珠養殖の急拡大に伴い、地元の漁師は真珠を育てるための母貝の養殖を開始。愛媛県では母貝と真珠、両方の養殖が盛んになった。やがて母貝の養殖業者も真珠養殖を始めるようになり、海外で真珠が人気を博していたことも相まって大いに潤った。
ところが、1967年(昭和42)、真珠の輸出価格が暴落し、その後も下がり続けた。いわゆる真珠不況の始まりだ。その理由は、生産過剰と品質低下であるといわれており、これにより愛媛県に進出していた県外業者は撤退してしまった。しかし地場の養殖業者は、家族経営が多かったことが幸いし、大半が事業を続けることができた。母貝が手に入りやすく、漁協や漁連の指導で地域を挙げて品質向上に取り組んだことも功を奏した。
1974年(昭和49)、愛媛県の真珠生産量は三重県を抜いて初めて日本一となる。しかし、その後もバブル崩壊後の真珠価格の下落、原因不明のアコヤ貝の大量死など、苦難は続く。加えて、かつてはフォーマルなアクセサリーの定番として成人や結婚を機に真珠を購入する人が多かったが、そうした習慣も薄れつつあった。