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特集
昭和に活躍した 暮らしを支えるわが町の文化財
神社仏閣や観光施設、店舗、民家など、国登録有形文化財に指定されている建造物は全国で1万4000件以上もある。これらの建物は、地域の歴史や文化の語り手であり、懐かしい時代の息遣いを伝えてくれる存在と言えるだろう。
そうした建物には、市民の日々の暮らしを支えてくれた施設もある。1926年(大正15)に建築された徳島県徳島市「佐古(さこ)配水場」の第二喞筒場(そくとうじょう)(ポンプ場)は、徳島県における国登録有形文化財第1号。その後、指定を受けた源水井(げんすいせい)、集合井(しゅうごうせい)と共に「佐古配水場赤煉瓦建築群」と呼ばれている。いずれも長く徳島市民の生活を潤してきた。
愛媛県内全域の気象業務を統括している松山地方気象台は、1890年(明治23)に愛媛県立松山一等観測所として発足した。そのシンボルであり、1928年(昭和3)に建てられた第一庁舎は、国登録有形文化財の指定を受けており、今も現役で活用されている。
今年は昭和100年という節目の年(※1)。その歴史を巡りながら、昭和に活躍した二つの施設の役割の大きさと、建造物としての美しさをあらためて検証したい。
※1:ここでは2026年(令和8)を1926年(昭和元)から起算して満100年とする(「昭和100年」ポータルサイト参照)
佐古配水場赤煉瓦建築群
構想から17年を経て完成した悲願の水道
水道が整備される前、徳島市の生活用水は井戸水や山の湧き水で賄われていた。「ただ、徳島市は海に近いため、井戸水には海水が混ざっていたり、衛生面で不安があったりしたことから、安心な飲み水の確保は市民の悲願だったのです」と説明するのは、徳島市上下水道局浄水課の勝野隆志課長。状況が変わり始めたのは1909年(明治42)、井戸水に含まれる雑菌が原因で伝染病が流行ったため、当時の一坂俊太郎市長は「水道を整備する」と宣言した。しかし、予算の確保や仕組みづくりに時間がかかり、1926年(大正15)にようやく悲願の水道が完成した。
水道整備にあたり、調査・設計を担ったのは、「近代上水道の父」と呼ばれる中島鋭治博士。博士は、「将来増える人口に対応できること」「いつまでも良い水が供給できること」の2点を重視して、名西郡藍畑村第十(現在の石井町第十)を水源とすることを決定。水量豊富な吉野川が流れる第十は、海からの距離があり、堰があるため海水が混ざる心配もない。第十で汲んだ水は水道管によって佐古配水場まで送られ、濾過(ろか)や消毒をした後に、ポンプで佐古山配水池に約47m汲み上げられる。
「高所に水を運び、そこから蛇口までは高低差を利用する自然流下によって届ける仕組み。夜間に配水池を満たしておき、翌日の需要に備えるという方式です」。完成当時、佐古配水場の水道水は、約2万4000人の生活用水となっていた。
通水100周年!歴史を語る建物を記憶に
「佐古配水場」の建築には、当時の徳島市の年間予算の3倍に当たる約260万円の巨費が投じられた。1995年(平成7)まで約70年間も稼働し、今は同じ敷地内にある新しいポンプ棟が役割を担っている。しかし今なお「佐古配水場」のシンボルとして親しまれているのが、イギリス積みの赤煉瓦で四方を囲った第二喞筒場(そくとうじょう)だ。建物の正面に立つと、最上部に施されたペディメント風(西洋建築に見られる三角形のデザイン)の装飾が目を引く。徳島市の市章と粟を組み合わせた紋章があり、その下にはバルコニー、外壁には白い半円形のアーチ窓が並んでいる。内部は漆喰仕上げ、小屋組は軽量鉄骨のトラス組(※2)となっている。古い洋風建築が少ない徳島県では、非常に貴重な建物だ。
「内部に導入された設備もとても立派なものでした」と話すのは、浄水課の吉﨑浩史さん。当初は、ドイツ製の400馬力発電機が据え付けられていた。現在は国産のディーゼル発電機に切り替えており、災害などの緊急時に備えている。「つまり今もこの施設は現役。いざというときに稼働しているのです」と吉﨑さん。第二喞筒場は1998年(平成10)に国登録有形文化財に指定されたほか、ヘリテージング100選(※3)、厚生労働省の近代水道遺産にも指定されている。
隣接する円柱状の集合井(しゅうごうせい)と源水井(げんすいせい)はそれぞれ、池で濾過した水の計量、山へ送る水量調節の役割を担っていた。いずれも要所に花崗岩を配し、浮彫などの装飾が施され、第二喞筒場の外観デザインとの調和も意識されているようだ。この二つの建物も、国登録有形文化財に指定されている。
貴重な建物群ではあるが、耐震性などの懸念があり、一般に公開されていない。ただし第二喞筒場の外観は、敷地外部からも見ることが可能。「2026年(令和8)は通水100周年という記念すべき年。徳島市の水道史を語る第二喞筒場の内部や他2棟については、この特集を通して記憶に留めてほしい」と願う勝野さんと吉﨑さんだ。
※2:三角形の部材を組み合わせて荷重を分散させる構造形式
※3:毎日新聞社の創刊135周年記念事業、日本全国から公募した近代遺産100件が選定された
佐古配水場赤煉瓦建築群
- 住所
- 徳島県徳島市南佐古六番町3-11
- 電話番号
- 088-674-1334(徳島市上下水道局)
- 備考
- ※一般見学は不可
※第二喞筒場の外観は、敷地外部から見学可能
松山地方気象台
モダンな雰囲気をもつ擬洋風の美しい建物
自然現象を常時観察し、防災情報を自治体や市民と共有して、防災官庁としての役割を果たす地方気象台。愛媛県内全域を対象に責務を果たしている「松山地方気象台」は、1890年(明治23)に「愛媛県立松山一等測候所」として松山市勝山町に設置された。大正時代には「愛媛県立松山測候所」に改称され、1928年(昭和3)に現在地へと移動。それに伴い新築されたのが、擬洋風建築の第一庁舎だ。
当時、県立の施設であったため、設計に携わったのは愛媛県技師の戸村秀雄。彼の師匠は、愛媛県庁本館(登録有形文化財)や萬翠荘(ばんすいそう)(旧久松伯爵別邸・国重要文化財)(※4)を設計した木子七郎(きごしちろう)だ。松山地方気象台の防災気象官である楠田和博さんは、「そのため第一庁舎の意匠は、県庁舎や萬翠荘と似通ったところがあります」と話す。
正面からの第一庁舎外観は、中央に層塔がそびえ立ち、東に切妻屋根、西は陸屋根がある左右非対称の洒落た建物。内部にもモダンな雰囲気が漂っており、2階まで吹き抜けになった玄関ホールは、ギリシャ風の円柱、白壁に木製の階段が美しい。こうした意匠だけではなく、構造面でも当時最先端の手法が採用されている。小屋裏は鉄骨のL字型鋼を使ったフィンクトラス組(※5)で、これは萬翠荘とほぼ同じ構造となっている。
細部には、西洋式上げ下げ窓、リノリウムの床材、模様が施された色ガラスなど、建築当時のままのしつらえが随所に見られる。建築から90年以上を経て、老朽化が進んでいた建物は、2023年(令和5)に改修工事を終えている。可能な限り、昔の面影を残した素晴らしい仕上がりとなり、専門家からも評価されている。
※4:本誌裏表紙「まちの景観」で紹介
※5:トラス組の一種で、W字型の形状が特徴。広さのある屋根に適し、内部に柱を立てずに大空間を確保できる利点がある
激動の昭和を生き抜き貴重な記録を残した施設
現役の施設として活用されている松山地方気象台第一庁舎の1階には、気象や地象に関わる実験装置、歴史資料などを置いた展示室が設けられている。展示された資料で目を引くのは、1945年(昭和20)の気象観測記録だ。松山大空襲があった7月26日の深夜から翌日未明にかけて、「火災(空襲)により不明」の文字が書かれている。その日、市街地にはたくさんの焼夷弾が落とされ、気象台にも危険が迫っていたはずだ。「365日、24時間休むことなく行われている気象観測。職員は恐怖を感じながらも、必死で業務を遂行したことが想像できます」と楠田さん。また当日の天気図は高気圧に覆われているため、本来なら雨は降らないはずなのに、雨の天気記号が残されている。これは空襲で生じた煤や埃が粒子となって、局地的に雨が降ったためと考えられるそう。
さらに戦時中の苦労を教えてくれるのは、気象台に残された1枚の写真。空襲を避けるために、目立たぬよう建物の外壁が黒く塗りつぶされているのだ。この建物は、まさに「昭和の証人」と言える。
2006年(平成18)に国登録有形文化財に指定された価値ある建物は、事前に申し込みをすれば見学可能。「建物見学はもちろんですが、気象や地象を分かりやすく学べる実験装置などもぜひ体感してほしい」と楠田さん。近年は地震や豪雨など自然災害に不安を感じている人も多い。その備えの一つとなるのが、気象台が発信している情報だ。
このほか、敷地内には梅やアジサイなど5種の標準木(※6)が植えられている。にぎわう市街地から近距離でありながら、穏やかな雰囲気に包まれている松山地方気象台は、昭和という時代を学び、気象や地象を知る上で、ぜひ訪ねたい施設だ。
※6:開花や満開などを観測する対象となる木
松山地方気象台
- 住所
- 愛媛県松山市北持田町102
- 電話番号
- 089-941-6293
- Webサイト
- https://www.jma-net.go.jp/matsuyama/
- 備考
- ※見学予約の申し込みは平日9:00〜17:00(業務の都合上、受け入れられない日時もある)

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